」と褒める。これもゴーリキイの気を重く、また考えぶかくさせた。ナロードニキである学生達は民衆を叡智と精神美と善良との化身、「すべての美なるもの、正義あるもの、崇厳なものの原理の所有者」のように話すのであったが、ゴーリキイが物心つくとからその中に揉まれ、それと闘って来た現実生活の下で、彼は「このような民衆を知らなかった。」
この事実こそ、最も明白にナロードニキ(民衆派)の学生達の善意はあるが、抽象的な世界観の内容とゴーリキイの現実的な社会の認識との間に横たわる歴史性の本質的な相異を語るものである。然し、この価値の高い現象も当時にあっては、ゴーリキイに或る不安な驚きと自分に対する一種の不信とを感じさせるにとどまった。
学生達はゴーリキイを、生えぬきの民衆の子としてばつが悪い位珍重しながら、一方ではゴーリキイを、彼等流の教育[#「教育」に傍点]で鍛えようとした。教師[#「教師」に傍点]たちは、ゴーリキイに勝手に好きな本をよむことを許さなかった。読んだものについてのゴーリキイらしい批評を注意ぶかく聞こうとしなかった。彼等は云うのであった。
「君はこっちからやる本を読めばいいんだ。君に適しない領域には――首を突込むなよ」
例えば、ゴーリキイはその頃『社会科学のABC』という本を読んだのであったが、そこでは文化的生活の組織の中でインテリゲンツィアの役割が著者によって誇張されて書かれており、進歩的な浮浪人や猟人などの存在が著者によって恥かしめられているように感じられた。ゴーリキイはその疑問を率直にある言語学の学生に伝えた。すると、その学生は「女のような仰山な表情」で「批評の権利」について説明した。
「批評する権利を持つためには――どれかの真理を信じる必要がある。君はどの真理を信じるかね?」
後年ゴーリキイはつつみかくすところなく回想の中に洩している。「こういう粗暴さは、私を焦立てた」と。
この時代からゴーリキイの心は溢れて詩になりはじめた。それが重苦しくて、荒削りなのはゴーリキイ自身にも感じられた。けれども、ゴーリキイにとって「自分の思想の最も深い渾沌を表現するのには」ほかならぬ自分の言葉で語るしかなく思われ、しかも、ゴーリキイは自分の詩を書く場合、彼を「いら立たせている何ものかに対する抗議の意味で殊更粗暴なものに」するのであった。この生々しく切迫し、本源的に八〇年代のインテリゲンツィアの非行動的な煩瑣饒舌に反抗している若者の内面的吐露を、彼の教師[#「教師」に傍点]の一人であった数学の学生は、さて、どう理解したであろうか。
「言葉じゃないよ、錘《おもり》だ!」
これがその学生の批評である。ゴーリキイは「生活の継児として自分を感じ」た。そして、時には「自分の智慧の発達を導いている力の重苦しさを経験」せざるを得ない。
そういう時、若いゴーリキイの奔放な空想と憧れとは彼をヴォルガの河岸へ運ぶのであった。そこに渦巻き展開される色彩のつよい労働、河の面を風にのって流れる荒っぽい、だが声量の豊かな俗謡。目的は何であるにせよ、たといそれが浪費であるにせよ、そこにはゴーリキイをよろこばせ、自身の生命の力をも鮮やかに感覚させる、むき出しな人間の肉体の動きと、それを縁どる自然とがある。
生れつき非常に感覚的な、多彩なゴーリキイが既にロシアの現実的情勢におくれはじめたナロードニキの学生達の観念とヴォルガとの間で揺れ、言葉のからくりの熟達者であった当時のインテリゲンツィアに対し、秘かに、だが、頑強に民衆の真情、飾らぬ言葉を主張していたところに、彼の読者である我々は彼の初期の芸術的情熱の深い根源を見出すのである。
独習者である自分に対しては学生達が「かなり厳格な態度」をとる。このことが、ゴーリキイにいまいましい思いを幾度かさせるが、彼等の言葉の一つ一つを裏付けている「人類愛」の感情は、ゴーリキイの心に全く新たな一面を開発する力をもっていた。人間の精神の裡にこういう感情があるという発見、そして、その感情に身を献げて暮し得る一群の誠意ある人々が此世にいるという事実。これは、ゴーリキイが今まで何処でもめぐりあったことのない驚異である。この力がゴーリキイをさし招く。ゴーリキイは、塵芥のいっぱいな崖の上にある小さいデレンコフ食料品店へ出かけてゆく。デレンコフのところには一種の図書館があり、そこには貴重な文献、手書きで写した本などが蒐集されていた。カザン市のあらゆる段階の進歩的見解の持主がこの穢い崖上の一点へ向って出入した。明るい色の髯の中に善良な顔と賢い眼とをもった瘠せた手のアンドレイ・デレンコフは、民衆派《ナロードニキ》で食料品商売から得る僅かの儲けを全部「先ず第一に、民衆の幸福」を信じている人々を扶けるために費している男なのであった。
デレンコフの家
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