すめたのであった。
プレットニョフとゴーリキイが夜を眠り昼を眠る廊下の隅の巣の外に三つのドアがある。二つの扉のかなたには淫売婦が、三つ目の扉のかなたには、数字から出発して神の存在を証明しようとしている肺病の神学出の数学者が時々恐ろしい喚き声を挙げつつ暮している。ゴーリキイは非常な困難をもって「科学を克服」する仕事にとりかかった。全体むずかしいこの仕事の中でも特に手に負えないのは、ゴーリキイにとって文法であったというのは面白い。彼は、幾分極りわるげに、しかし或る誇りを潜めて書いている。「私はその中に、生きた、困難な、気儘で柔軟なロシア語をどうしてもはめこむことが出来なかった」と。この科学との取組み[#「科学との取組み」に傍点]は案外早く終りを告げた。小学教師の試験を受けるにゴーリキイは、まだ若すぎることがわかったのであった。
ところで、ある朝、この「過ぎ去った人々や未来の人々の騒々しい植民地」の一隅に一つの出来事が起った。そこの住人であった一人の廃兵と労働者とが憲兵に引っぱって行かれた。プレットニョフはこのことを知ると、興奮してゴーリキイに叫んだ。
「おい! マクシム! 畜生! 走ってけ、兄弟、早く!」
ゴーリキイは、合図の言葉を知らされて「燕のように迅く」或る場末町へ走って行った。そこに小さな銅器工の仕事場があった。暗い仕事場の中には異様に青い眼をもった一人の縮毛の男がいて、鍋に錫をかけている。――が、ゴーリキイは、勤労者の若者の炯眼で見破った。労働者には似ていない。――ゴーリキイは銅器工に訊いた。
「こちらに仕事はありませんか?」
「こちらにゃ、あるが、お前の仕事は、ないね!」
若い縮毛の男はちらりとゴーリキイを見て、再び鍋の上へ頭を下げた。ゴーリキイは、こっそり足でその男の足を突いた。若い男はびっくりしたように怒って鍋をふり上げたが、ゴーリキイが彼に瞬きをするのをさとると、静かに言った。
「行け……行け……」
往来へ出てゴーリキイが待っていると、その男も出て来てタバコをふかしつつ、黙ってゴーリキイを見詰めた。
「あなたはチーホンですか?」
「そうだよ」
「ピョートルがやられたんです」
「どこのピョートルだね」
「長い、寺僧に似た男ですよ」
「で?」
「それだけです」
すると、その銅器工は、
「ピョートルだの、寺僧だの何だのって、俺に何の関係があるんだね?」
と訊いたが、この訊きかたそのものがゴーリキイに彼の労働者でないこと、しかし彼の使命は果されたことを一層はっきり感じさせた。
これがきっかけとなり、当時のカザンに於けるナロードニキを主とする急進的なインテリゲンツィアとゴーリキイとの接触がはじまった。ゴーリキイは、墓場の濃い灌木の茂みの中でもたれる彼等の集りに行った。すると、彼等は波止場稼ぎの若者であるゴーリキイが「何を読んだかということを厳重に問いただした上で」彼等の研究会でゴーリキイも勉強するように決定した。そこではゴーリキイが一番年若であった。後に自殺した或る師範学校の生徒の家へ集って、チェルヌイシェフスキイの註解付のアダム・スミスの書物を研究するのであった。アダム・スミスの読解は、ゴーリキイをひきつけなかった。「よその小父さん」の幸福と安逸とのために自分のすべてを消耗しているものにとっては実に明らかな事実について、むずかしい言葉でこんな大きい本を書く必要はなかったという風に、ゴーリキイには考えられた。スミスが提出する経済学の命題は、生活から直接獲得されたものとして、ほかならぬ彼自身の皮膚の上に書かれている。――
然しながら、マクシム・ゴーリキイはその退屈をこらえ「絶大な緊張をもって、草鞋虫の這っている窖の壁を見つめ、坐りつづける。」彼の内心に答を求めて疼いている数限りのない「何故?」がそこから彼を去りかねさせるのであった。マクシムは、抑え難い感動をもってゲルツェン、ダーヴィン、ガリバルジなどの肖像を眺めた。そして、息苦しい室内に集って真理を擁護しながら議論をわき立たせるこれら一団の人々が、よりよい人間の生活の招来のために献身していること、彼等の言葉の中には彼の無言の思いも響いていることを感じ「自由を約束された囚人のような狂喜で」これらの人々に対したのであった。
同時に、これまで経験したことのない妙なばつわるさ、居心地のわるい瞬間が、ゴーリキイの生活に混りこんで来た。これらの学生達は目の前へ彼を置いて「まるで指物師が並々ならぬものを作ることの出来る木の一片でも見るよう」な眼付でゴーリキイを眺めた。「子供が道傍でひろった大きい銅貨でも見せ合うように、誇りをもって」彼を皆に紹介し合った。これは、ゴーリキイの淡白な気質にとって工合わるかった。更に彼等は、ゴーリキイを「生えぬきだ!」「まったくの民衆の子だ!
前へ
次へ
全32ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング