反撥し、それを軽蔑している。この人々にゴーリキイはつよく惹きつけられた。そして「彼等の辛辣な環境に沈潜して見ようという希望」に捕えられた。
 ゴーリキイは屡々泥棒のバシュキンやけいず[#「けいず」に傍点]買いのトルーソフなどとカザンカ川を越えて野原へ、灌木の茂みの中に入ってゆき、いかがわしい彼等の商売のこと、更にもっと頻繁に、生活の複雑さについて、人間の関係の不思議な縺れ合いについて、何よりも多く女について話しながら、飲んだり食べたりした。世界のすべてに対して嘲笑的に敵意をもっているこれ等の人々の話、自分自身について無関心なこれ等の人々の物語には、町人生活の息づまる暗さから脱しようとし、而も大学で勉強しようという輝いた空想――高まろうとする欲望を貧という現実の力で思いやりなく砕かれたゴーリキイの若く激しい感情を掴むものがある。彼等の人生に対する抗議に、ゴーリキイは自分の憤りにみちた傷心がこめられているように感じる。けいず買いのトルーソフは、こういう人生の微妙な岐路にあるゴーリキイを眺めて、そして、云うのであった。
「マクシム、お前は泥棒の悪戯《わるさ》には入るな! 俺は考えるんだが、お前には他《ほか》の道がある。お前は精神的な人間だ」
「精神的って、どういう意味だい?」
「何に対しても羨望ということがなくて、唯、知りたいっていう心だけ在る人間のことを云うんだ……」
 ゴーリキイは、これは当っていないと思う。だが、彼の天質に蔵されている健全な生活力が、この虚無的な雰囲気との摩擦の間に、一つの新しい疑問の形をとって、徐々にその働きを現した。これらの連中は、いつ、何を話しても、とどのつまりは「何々であった[#「であった」に傍点]」「こうだった[#「だった」に傍点]」「ああだった[#「だった」に傍点]」と万事を過去の言葉でだけ話す、その事実にゴーリキイの観察と疑惑がひきつけられた。意味深い彼等のこの特性の発見は次第にゴーリキイの鋭い心に或る恐怖を感じさせた。ゴーリキイの精神は激しく、よりよい人生の可能を求めてここに来ているのであった。彼は未来を、これからを、よりましな「何ものかであろう[#「であろう」に傍点]」ところの明日から目を逸らすことが出来ない。ゴーリキイは彼等のように生きてしまった人々[#「生きてしまった人々」に傍点]の一人ではなかった。ゴーリキイは生きつつある者、しかも熱烈に生きんとしているものの一人なのである。「このことが、彼等から私を去らしめた。」マクシム・ゴーリキイは、その自伝的な作品「私の大学」(一九二三年作)の中で活々と当時を回想している。「私は外部からの助力を待たず、幸福な機会というものにも望みをかけなかったが、私の中には次第に意志的な執拗さが発達し、生活の条件が困難になればなる程、それだけ堅固な賢くさえある自分を感じた。私は非常に早くから人間を作るものは周囲の環境への抵抗であるということを理解した」のであったと。
 しかも、ゴーリキイはこういう意味深い記述の間に、当時まだプロレタリアートの力が階級として確立していなかったロシアの民衆の中にあって、彼のような立場の若者が、経なければならなかった社会的な危機とその歴史的な価値とを自覚して十分描き出していないことは、今日の読者の注目をひくところである。まだ階級としての小市民を知らず、ただそれに対して本能的な、執拗な反抗をしつつ、その反抗を系統づけ、方向を決めるプロレタリアの力が情勢として育っていないために危くも虚無的な、社会の破壊力の裡へ堕落しそうになった一箇の才能の※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》きは、私達に最も厳粛な同情と真面目な省察とを促すのである。

 今や、ゴーリキイは「ぼんやりした、しかしこれまで見たすべてよりももっと意義のある何ものかへの欲求」に燃えて、カザン市の貧民窟「マルソフカ」の一部に大学生プレットニョフと暮しているのであった。が、プレットニョフとゴーリキイとが暮しているのは、その有名な貧民窟の中にあっても部屋と名づけられない階段下の廊下の一隅であった。屋根裏へのぼる階段の下の廊下にプレットニョフの寝台が一つ置いてあり、廊下のつき当りの窓のところに机、椅子。それっきりしかなかった。ゴーリキイは夜その寝台に眠った。プレットニョフは昼間。
 貧しいこの大学生はカザンの新聞社へ夜間校正係として働き、一晩十一カペイキずつ稼いで来た。ゴーリキイに稼ぎのなかった日、この心を痛ましめる睦しい同居者たちは四切のパンと二カペイキの茶、三カペイキの砂糖だけで一日を凌ぐことも珍しくない。ゴーリキイは波止場稼ぎを屡々やすんだ。プレットニョフは若い孤独なゴーリキイの生活の困難と危険とを知って、彼と一緒に暮し、田舎の小学校教師になる試験を受けるようにとす
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