のであった。
「此の自分を何とかしなければならない。さもないと、俺は破滅してしまう……」
人生の袋小路からの脱け路を求めつつ、ゴーリキイは自分が小さい時分、秋、日暮れ近い森で道に迷った時のやりかたを思い出した。そういう時彼は、茂みの中で朽ちた枝の上でも、沼地の滑り易い凸凹の上でも所きらわず真直行くといつかは道に出ることが出来た。ゴーリキイはその通りにやろうと決心した。その秋、ゴーリキイは、遂に大学のあるカザンへ出発することにしたのであった。
青年時代
――私の大学――
自身の裡に夥しく蓄積され、殆ど彼を圧し潰しそうに感じられる人生からの濃厚な印象、湧き起る様々の疑問は、十五歳のゴーリキイを抑え難い力で、どこかへ、ここニージニでないところへ、もっと広い、もっと息のつけるところへと押し出しつつあったのであるが、その方角をカザン市ときめたのには、彼より四つ年上の中学生エフレイノフの影響があった。
当時、市場の建築工事場の若い事務員をしていたゴーリキイと同じニージニの或る屋根裏部屋を借りてエフレイノフが住んでいた。ゴーリキイの天質と驚くべき読書慾とが、エフレイノフとゴーリキイとを特別の友情で結びつけるに至った。エフレイノフは美しい長髪を振りながら、善良な心に燃えてゴーリキイを説得した。
「君は生れつき科学に奉仕するために作られているんだ。――大学は正に君のような若者を必要としているのだ」
そして、エフレイノフの言葉に従えば、カザンへ行ったらゴーリキイは彼の家で一緒に暮し、秋と冬との間に中学卒業の資格をとって、幾つかの[#「幾つかの」に傍点]試験を受ける。カザン大学はゴーリキイのような若者に官費をくれる。五年も経てば、ゴーリキイはきっと「学者」になれるというのである。
現実生活から読書からの印象と、目覚め発育を意識する知性の渾沌で苦しんでいたゴーリキイにとって、エフレイノフのこれ等の言葉が強い刺戟を与えたのはまことに自然である。彼はこの時、ヴォルガ通いの汽船の上で、皿洗い小僧をしていた自分に云った料理人スムールイの言葉をも記憶の中に思い起したことであろう。スムールイも繰返し云った。「お前には智慧がある。ここはお前のいるところでない。出て行って暮せ!」又「俺に金があったら勉強させてやるんだがなあ……」
何とかしてカザン大学に入る。――
ところが、カザンへ着いてゴーリキイがそこに見出したのは大学への道ではなくて、早速の飢餓であった。善良なエフレイノフと更に勉強だけに没頭している弟とには、貧しい恩給暮しの母親が、どんなからくりをして、息子二人と、どこの誰ともはっきりしない体の大きい、粗野な若者を食わしているのか一向に分らない。が、ゴーリキイは最初の日から母親の面している困難を一目で見透した。ゴーリキイには、この母親がどんなに気を張り智慧をしぼってその日その日三人の健康な若者の胃をなだめているかということがわかり「一片のパンさえも石となって」彼の心にのしかかるのを感じる。
昼食をしないために朝から家を出た。天気の悪い日には、焼跡の原に向った一つの廃墟の広大な地下室の中に坐っていた。そこでは野良犬や野良猫が生きて、死んでゆき、それらの犬猫の死骸の臭いが、雨や風の音の下で漂っている。
飢えないためにゴーリキイはヴォルガへ、波止場へ出かけて行った。独特な「私の大学」時代が始まった。波止場で十五|哥《カペイキ》、二十|哥《カペイキ》を稼ぐことは容易であった。そこで、荷揚人足、浮浪人、泥棒の間に自分を置き、ゴーリキイは後年この時代のことを、次のように書いている。「私は赤熱された石炭の中に入れられた鉄の一片としての自分を感じた」「そこでは私の前に裸にされた貪欲な人々、粗暴な本能の人々が渦巻いていた」と。
もとは師範学校の学生で職業的な泥棒であり、ひどい肺病になっているバシュキンは新顔のゴーリキイに向って雄弁に吹き込んだ。
「何だい、お前は。まるで娘っ子みたいにちいさくなってさ。それとも礼儀を無くしたくないんか? 娘っ子にとっちゃ礼儀が全財産さ、だがお前にとっちゃ、それは軛だ。牛には礼儀がある。それっていうのも、奴は満腹しているからさ!」
彼等が極端な無一物でありながら、飢えと悲しみとの境遇の中で愚痴を云わず自分たちの拘束されない生きかたを愛していること、又、この人生に対して露骨な辛辣さを抱きそれを表明していること。それらがゴーリキイの心に好奇心を動かし、同情を惹きおこした。彼等の生活はゴーリキイがこれまでこき使われ、愚弄されて来た小商人達、小市民連のこせついた独善的な日暮しとは全く別なものであった。彼等は自分達の全生活でもって、ゴーリキイ自身が嘔気を催す程厭悪している。生ぬるい、厚顔な町人根性に
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