やがる。覚えとけ! 覚えとけ!」
店へ来る百姓は皆貧乏そうで、空腹な人々のように見えた。それだのに聖詠経一冊に三ルーブリ半も払う。それはゴーリキイに奇怪な感じを抱かせた。そういう人々の無智から儲ける聖画売の商売、又、珍らしい古代の作品を売りに来る者をちょろまかして儲ける悪辣なやり口もゴーリキイの心を苦しめた。
聖画屋の小僧が本を読む。そのことをぺてん師の鑑定家の爺と番頭とがあくどく揶揄した。
「さて、学問のあるお前のことだ。この問題を噛み分けて見な。ここに、千人の裸坊主がいる。五百人が女で、五百人が男だ。この中にアダムとエヴァがいるが、お前はどこで見分けるかい?」
ゴーリキイを、散々卑猥な説明で悩してから爺は教えた。
「つまりはお前も馬鹿な小僧さんだね。アダム、エヴァは生れた人間じゃなくて、造られた人だから、臍が無いじゃないか!」
ニージニの肥え太った商人達は、冬期は特に退屈に圧されて惨忍な馬鹿気た慰みをやった。商人の生活ぶりはゴーリキイの気に入らない。また所謂信心深い連中、殉教者というのが実はただ意志を固定させているだけで未来に向ってちっとも伸びようともせず、伸びるだけの能力を持ってもいないこと、翼をもがれ、手足をとられていても狭苦しい偏見や独断に馴れた精神と感情とは、習慣で徒に真理の墓を守っている。信仰の堅いという連中は、その生活の中ではちっとも愛の光に照されていず、寧ろ喜んで互に圧迫しあっている。これらの毎日の観察は、ゴーリキイの生涯に譲ることのない確信として、習慣による信仰が最も悲しむべき有害な現象であることを理解させる土台となったのであった。
ゴーリキイは、手帖にいろいろのことを書きこむことを始めた。本からの感想、日々の出来事からの強烈な印象、又は詩などを。聖画屋の番頭はそれを知ると、この反り鼻の小僧を呼びつけて言いわたした。
「お前は抜萃帖か何か作ってるそうだが、そんなことはやめちまわなくちゃいけない。いいかね? そんなことをするのは探偵だけだ」
聖画店の主人は五|留《ルーブリ》の給金を無駄にしないようにゴーリキイを働かした。ゴーリキイは主人が家具、敷物、鏡その他に執着し、こせこせとそれらを自分の家の中に詰め込むのが厭わしかった。市場の倉庫からサモワールだの箱だの鋏までくすねて来るのを見るのは厭しかった。その不恰好な置かたや塗料の匂いまで癪にさわった。彼のまわりでは主人が盗むばかりか、職人達が主人をちょろまかしている。ゴーリキイは何も所有したくなかった。ベランジェの小さい一巻とハイネの詩集ぐらいが彼の全財産である。
彼の周囲の人々はすべて、卑劣な奴も、智慧のある奴も狡い奴も、ゴーリキイに、彼等と一緒に住むことは出来ないと思わせるような人々ばかりであった。「何とか他に生きようはないものだろうか? 何処へ行ったらいいだろう。」ゴーリキイの全心にこの堪え難い囁きが、日夜響くようになって来た。ゴーリキイが折々心の内を打あける老職人のオシプはゴーリキイにすすめた。
「啄木鳥《きつつき》は頑固だが、怖ろしくない。誰もあんな鳥を恐れはしない。そこで俺は心からすすめる、修道院へ行きな」
然し、修道院へは行きたくない。ゴーリキイは泣きたいような気持になり、十五歳になったばかりの自身を、もう永く生きた者のように感じる。酒を飲まず「女に絡まらず」青年になったゴーリキイの気紛れを遮っているのは書籍なのであったが、読書すればする程、一般人の暮しているような詰らない必要のない生活をして行くのがいやになるばかりである。しかも、心の内側にぎっしりつめこまれている人生からの雑多な印象、驚くべき多読からの不秩序な蓄積、いろんな疑問、悩みを択り分けるだけの力も手段もない。それらの精神の重荷が、ゴーリキイをひょろつかせた。不幸、病気、泣きごと、流血、殴打、ひどい言葉の愚弄、それらはどれもゴーリキイに堪え難く、肉体的な苦痛を引起すのであった。だが、彼の生きる暗い環境の中ではその苦しさが常に極度にまで緊張させられるようなことが頻々として起った。苦痛が嵩じて「一種冷やかな狂暴に生れ変って来ると、今度は若い」ゴーリキイ自身が「獣のように荒れくるった。そして後から胸の痛い程恥しく思う。」
心に痛みをもってゴーリキイは店から抜け出し、悠大なヴォルガの落日を眺めた。本で知った他の都会の生活のこと、風変りな生活をしている外国のこと、地上の大さの感じがいつしかゴーリキイの心を鎮め、彼の周囲でゆっくり単調に煮えている臭いような生活とは違った生活の可能性が想われて来る。
大地全体に、そして自分自身に、程よい一撃をくらわしてやりたくなる。そうしたら一部のものは、自分自身も、悦ばしい旋風のように動き出すだろう。ゴーリキイは、苦痛と期待との間で揺れる心で沈思する
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