い。このことは、一九一五年代の作家ゴーリキイが階級性というものに対して持っていた態度の或る現れとして、二重に興味ある将来の観察を刺戟されるのである。
同じ歴史上の事件は、ペテルブルグのような首都の工場労働者の家庭では些か違った風に受けとられた。マクシム・ゴーリキイより三歳年下であったシャポワロフは、一八八一年の三月頃はまだペテルブルグの市立小学校へ通っていた。その日、教師はひどく亢奮してわけも話さずいつもより早く授業をすました。そして子供達を家へ追い帰した。街では巡査が恐ろしい顔付をして軒並に店を閉めさせている。街中妙にそわそわした様子であった。家へ着いた頃は往来に人通りもなくなってしまった。
「おっかさん」とシャポワロフは訊ねた。「先生はどうしてこんなに早く家へ帰れって云ったんだろ。何故町じゅう店を閉めてんの?」するとシャポワロフのおふくろは、びくびくしながらも息子にはっきり云った。「皇帝を殺したんだよ。社会主義者が殺したんだよ」
さて、ゴーリキイは、製図師のところを出てから、今度は月七|留《ルーブリ》の給料で又ヴォルガ通いの汽船ペルミ号の炊夫をやった。この船には嘗てのスムールイとは全く違って、しかもゴーリキイの心を魅した一人の男がいた。ヤコヴという胸幅の広い角張った火夫であった。カルタが巧くて、大食で、この男がへこたれたり、考え込んだりしたのを見たことがない。毛むくじゃらの口からは常に言葉が流れ出している。それでいて、彼の中には何となく人と違ったところがあった。それは昔の「結構さん」の中にあったものとどこか似ている。彼は自分でも自分の特質をよく知り抜いており、また人々に理解して貰えないということを、ちゃんと弁えていた。この男の言葉づかいには一つの癖があり、他人なら善いとか悪いとか、拙いとかいうところを、ヤコヴは大概、興味がある、面白い、珍しいという云い方で表現した。この男がゴーリキイに初めてカルタの勝負を教えた。そして、忽ちゴーリキイが負けた金の半額、ジャケツ、長靴などをかえして云った。
「遊びだよ、これは遊びだよ。楽しみだよ。それだのにお前はまるで喧嘩腰で来る。喧嘩だってやたらむき[#「むき」に傍点]になったんじゃ駄目だ。一度しくじってもいい。五度しくじってもいい。七度でもいい――それが何だ! 止すさ。引込むだけのことさ。そして、冷めきってからまたやるんだ! それが遊びだ」
ゴーリキイには益々この男が気に入り、彼の話しぶりは、輝やかしい祖母さんの物語を連想させる程である。しかし、どうしてもこの男には気に入らぬところがあった。それは人々に対する深刻な冷淡さ、これが断然ゴーリキイの性分に合わぬ。しかし、ヤコヴはゴーリキイからお前は石だねと云われた時、ゴーリキイの心臓に注ぎ込まれて忘られぬ言葉を云った。
「おかしな男だな! 石[#「石」に傍点]と来たか?――だが、お前は石をも可哀想に思う人になってくれ。石もそれ相応の役に立つ。街なんか石で敷きつめる。どんなもんでも可哀想に思わなけりゃならない。砂だって――何だろう。その上に小さい草が生えるだろう……」
このヤコヴにゴーリキイはプーシュキンの詩を読んでやった。パリの物語を読んでやった。ヤコヴが、偶然ペルミ号にのり込んで来たシベリアの去勢宗教のところで働くことにきめ下船する時、ゴーリキイを誘った。
「俺と一緒に行かないか? 一言話せばあの鳩ぽっぼはお前もつれて行くぞ」
生気のない眼をした、ぐにゃぐにゃした感じの男は、ゴーリキイの心に嫌悪を生んだ。ヤコヴ・シュモフは、ゴーリキイの心に「穏やかならぬ複雑な感情を残して、熊のように体を揺りながら立去ってしまった。――」
秋、ヴォルガの河の水瀬が落ちる。船が通わなくなる。冬の屋根を求めて、ゴーリキイがもぐり込んだのは聖画工場の見習であった。
毎朝、番頭と一緒に寒い暁方の街を歩いて商店街からニージニの市場の陳列場の二階にある店へ通い、陳列場の土間を重く歩いている人々に向って、細い声を出して、利益をのべたてて聖画を買わせる。それがゴーリキイの役目なのであった。
「旦那、何か如何でございます? 聖像もお値段はいろいろですが、品は上等落付いた塗になっております。御注文も頂きまして、どんな聖人方でも聖母様でもお描き申します」
これはゴーリキイにとって恥しかった。客は犬でも見るように小僧のゴーリキイを眺め、やがて隣りの店へ行ってしまう。
「逃しゃがった! いい売子だよ!」
番頭が怒った。すると、隣の店からは軟かい、甘ったるい、うっとりさせる口上が流れて来る。
「手前共は、羊皮や長靴などの商いではございません。金銀にまさる神様のお恵みを御用立てるのでございます。これには、もう値段はございません」
「畜生! うまく百姓をたらし込んでい
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