ばならぬ不幸な事情である。
 まして、ニージニは半アジア風な商業都市であった。年一度、遠くペルシャやアルメニヤ、コーカサス辺から迄地方物産を集めて開かれる世界に有名な定期市《ヤールマルカ》で、(一九二八年迄数世紀間つづいた)謂わばニージニという町全体が生きていた。田舎風な都会、一年の最高頂の時期は、罵声と殴り合いの合奏する巨額な金の集散、そのおこぼれにあずからんとする小人の詭計の跳梁、泥酔、嬌笑に満ち、平日は通俗絵入新聞が地方客に向って撒く文化を糧としつつ、ヴォルガ沿岸の農民対手の小商売で日暮しているとすれば、全住民を包む気分の性質は今日の我々の想像にも尚活々と会得されるものがある。ゴーリキイは彼の胸をムカムカさせる小市民と、善良な人々ではあるが貧と無恥、野蛮の中にとめられているヴォルガ河岸の家のない羊の塊りのような自由労働者の生活としか知らなかった。
 この生活環境の特徴的な事情は、十三歳頃のゴーリキイの成育の中に微妙な反映を与えている。「人々の中」で朝から夜までこき使われる者、理由もなく殴られ得る下積の存在として、天質の豪気さ、敏感さ、熟考的な傾向と共に、少年ゴーリキイの生活及び人間に対する観察力は非常に発達している。殆ど辛辣でさえある。現実は強く彼を鍛え、書物に対する判断、芸術における現実性の価値の評価についてまで、少年らしい夢の底で正しい本質をついている。パリやベルリンのいろいろな生活についても知っていた。しかし、彼は当時の自分の力では打ち破ることの出来なかった周囲のごまかし、小市民の毒によって、少なからず制約されている。自分で知らずに、鋭い心の目覚めを遅らされた。この興味ある一例は一八八一年三月一日に、農奴解放を行って後全く反動化したアレキサンドル二世が「人民の意志」党員グリニェヴィツキーのテロルに殪れた時の記憶の描写に現れている。「人々の中」でゴーリキイはこう書いている。
「思い起せば、丁度そのような詰らない時に(製図師の家での不幸な小僧生活)生じた一つの不思議な出来事がある。或る晩、皆の者が寝鎮った時、急に本会堂の鐘が鳴り出した。家の者は皆一度に起き上った。半裸体の人々が窓ぎわへ飛んで行って、訊き合っている。
『火事かしら?……警鐘《はやがね》のようだが……』
 よそでも騒いでいるらしい。扉をどたんばたん[#「どたんばたん」に傍点]と鳴らす音が聞えた。誰かが屋敷内で馬の手綱をひいて駈けて行く。老婆が、本会堂へ泥棒が入ったんだよ、と怒鳴る。主人がそれを制し、
『おっ母さん怒鳴るなよ。あれは警鐘《はやがね》じゃないよ!』
 主人の弟ヴィクトルが寝棚から降りて来て、着物を着ながら呟いている。
『俺には何が起ったのか解っている。ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と分っている!』
 主人は、火の手が見えるか屋根へ登って見ろと云いつけた。」
 ゴーリキイは屋根へ出て見たが火の手は見えぬ。静かな冷たい夜気の中で、ゆるやかに鐘が鳴っている。暗くて姿の見えない人々が雪を軋ませながら走った。橇の滑り木が鳴る。鐘は気味悪く鳴りつづけている。この夜の地方の町らしい描写を、ゴーリキイは実感をもって記憶に呼びおこしている。主人が戸外へ出ようとすると、主婦がこわがって、
「貴方行かないで! ね、行かないで……」
とすがりつく。男連はそれを振り払って往来へとび出した。ゴーリキイがサモワールの仕度を云いつけられて台処で働いているところへ主人が玄関へ飛び込んで来て「太い声で云った。
『皇帝が殺されたんだ!』
 ヴィクトルは帰って来ると、詰らなそうに外套をぬぎながら怒って云った。
『俺は戦争だろうと思ったのに!』
 皆は揃ってお茶を飲んだ。そして安らかに、とは云え、声を潜めて用心深く語り合った。」
「二日の間彼等はひそひそと囁き合っては何処かへ出て行った。またこちらへも客が見えた。そして何か詳細に語りあった。私は何事が起きたのか知りたかった[#「私は何事が起きたのか知りたかった」に傍点]。けれども家の者は私から新聞を隠した[#「けれども家の者は私から新聞を隠した」に傍点]。そこで」知り合いの兵卒に「皇帝の殺されたわけを訊いて見た。彼は声を潜めて答えた。
『そのことは口にしちゃいけないんだ』」
 そして、ゴーリキイは、「これらのことは忽ち消えて日常の瑣事に覆われてしまった。」とその含蓄ある条を結んでいるのである。その事件があってから三十四年の後(一九一五年)に至ってゴーリキイは「人々の中」でこの記憶に触れているのであるが、この事件の経験のしかたからはっきり自覚される筈の当時の彼の事情――一箇の小さな人間として彼自身が息苦しく封じ込まれていた環境の小市民性、及びそれが彼の旺盛な内的発展の一面を直接間接に鈍らせていたこと等については、特別何ごとをも云っていな
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