等の役に立とうと云うおごそかな誓を立てたのであった。」
辛い日常生活が与える現実の苛責ない鍛錬によって十三のゴーリキイは、書物に対しても鋭い独特の観察と批判とを蓄積するようになった。新しい翻訳の本を読むごとにロシアの生活と外国の生活との違いが彼にはっきり理解されて来たばかりでない。どの国で書かれた本にしろ多くの物語風の書物の中には、善玉、悪玉があってそれが勧善懲悪的な筋で終りを結ばれている。が、ゴーリキイが実際の民衆生活の中で自分の体で経験しつつある人間は、そういう善玉・悪玉のどれにもあてはまらない。例えば書物はよく悪漢、慾深、卑劣漢などが出現するのであるが、本に出て来る悪漢その他は、いかに惨忍であるにしろ、その惨忍さはどっちかというと事務的で、何故その男がこんなに惨忍なのか大抵その理由や動機がわかるように書かれている。ところがゴーリキイが幼年時代に祖父の家で観た惨忍、靴屋の小僧時代経験させられたサーシャその他の惨忍、更にヴォルガ通いの汽船の上で数限りなく目撃し、自分の身をさらした惨忍性は「無目的な無意味なものだ。それによってどうしようというのではない。ただ慰みのためにするものなのだ。」本の中にはゴーリキイにとって忘れ得ぬスムールイのように獣的な粗野なものと優しさとの混りあった人物は出て来ない。本に描かれている多くの主人、司祭は、実際のものといつもきっと、どこか違う。――
指導してのないために乱読せざるを得なかった十三歳のゴーリキイが、現実と文学との間に在るこの微妙な一点に観察を向け得たという事実は、注目すべきことであると思う。まだ五つ六つだった頃、祖父の家の下宿人「結構さん」とゴーリキイが取交したあのいかにも生活的な、ユーモアと生活力とに満ちた問答が思い出されるのみならず、後年のゴーリキイが作家として現実に向って行った態度の根本的な面が、既にこの献身的な読者としてのゴーリキイの判断の現実性の裡に強く閃いている。当時彼の手に入った本の作者の中で型にはまった善玉・悪玉がなく「あるのは只人々だけ。不思議に活々した人々」の生活だけを描いたのは、僅にゴンクールとバルザックだけであると思われたという回想は、今日彼の全生涯を見とおす立場に置かれている我々にとって、実に意味深い示唆を与えるのである。
この年配において、ゴーリキイが善玉・悪玉を人間的な心持から嫌悪したばかりでなく、本が少数の例外を除いて「皆、主人の家の者共と同じように人々を厳しく叱ったり、したり顔で批判したりしている」ことに歴然とした反撥を示していることも亦将来において展開された芸術家としての特質の萌芽として見落されてはならない一点である。ここには、本を読んだからと云って殴られる台処働きの小僧の中に燃えている人間的尊厳の抗議、給料を祖父にとられる貧しい小僧だから、淫売をする洗濯女といちゃついて、酔倒れた兵卒のポケットから財布を掠めもするだろうと思われ、全然事実とは違うその卑俗な偏見によって昏倒する迄彼を殴りつけた周囲の人々の独善的な小市民気質に対する歯に衣《きぬ》きせぬ反撥が語られているのである。
農奴解放、それに引続く資本主義の発達に伴い、この時代(一八七〇年代末――八〇年代)ロシアには偽瞞的な自由を獲得した稍々《やや》富める農奴から転じた無学な小市民層と、主人と住家耕地を失って都会、工業地帯に移行する農奴出身の労働者層とが急速に増大した。当時からロシアの主要工業地帯であったモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]県、イワノヴォ・ヴォズネシェンスク市、ハリコフ、オデッサ、ペテルブルグ市その他では、ナポレオン侵略の一八一二年頃に比べ、全住民の四パーセントしかなかった労働者が一八九七年には十三パーセントにのぼった。少し目ぼしい各都市では、手工業的生産が近代資本主義経営へ移り、そういう小市民の暇つぶしのための絵入新聞が未曾有に発刊された。その時代の波はゴーリキイの育っているニージニ・ノヴゴロド市にも打ちよせた。祖父カシーリンが、ヴォルガの曳舟人夫から稼ぎ上げた財産、職人組合長老の位置などは、この全ロシアを動かした経済事情の変転によって失われた。手工業生産者から産業資本家にうつることが出来ず、破産没落した一つの典型なのであった。
こういう家と時代に生れ、ゴーリキイは生粋下層民の子供として人生と闘いつつ、親族に労働者として働いている者が一人もなかったため、小僧働きの環境はいつも手近な縁を辿って都市的な小市民的雰囲気に限られていたこと、その窒息的に濃い重い執こい空気の中で少年ゴーリキイが、天成の素質の健康さによって二六時中身をもがきつつ、而も成長の或る時期迄避け難くその中に縛りつけられていたことは、彼の生涯の発展のジクザクな道を知るについて十分の洞察をもって理解されなけれ
前へ
次へ
全32ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング