殆ど一世紀近い歳月が流れている。ゴーリキイを憤怒させた哀れな中小僧サーシャの雀の聖骸の物語は欧州の科学的文化の進歩に対してロシアの社会の封建制、ギリシア正教がどのようにおくれたものであったか、そして、そのために民衆の想像力はどのような形で迷信に縛りつけられていたかということを、今日の読者である我々に驚きをもって啓示するのである。
靴屋の小僧をやめて後、ゴーリキイは製図師の見習小僧をさせられた。ヴォルガ通いの汽船の皿洗いをし、聖画屋の小僧となり、ニージニの定期市での芝居小屋で、馬の脚的俳優となったりした。日本では西南の役があった次の年、一八七八年(十歳)からの五、六年は少年ゴーリキイにとって朝から晩まで苦しい労働の時代であった。この時代、大人の利己心、仲間の性わるさにこづきまわされつつ彼は「多く労働した。殆どぼんやりしてしまうまで働いた。」
背中に繩をつけられた小猿のように、ゴーリキイの後についた紐のはじは、祖父か祖母の手に握られており、ゴーリキイの給料ともいえない僅の銭は皆そういう人々の掌に入ってしまうのであった。
祖母さんの妹息子の製図師のところから、虐待に堪えかねゴーリキイが二十哥握って逃げ出した後、働くことになったヴォルガ通いの汽船での皿洗いの仕事も十一のゴーリキイにとって決して楽な勤めではなかった。給料月二留。朝六時から夜中までぶっ通しの働きであった。ここでも四辺に満ちているのは暗い野蛮、卑猥、飽きもせず繰返されている喧騒とであったが、計らず「母なるヴォルガ」はその洋々とした流れの上で、ゴーリキイの生涯にとって実に意義深い「最初の教師」をひき会わせることになった。
皿洗いゴーリキイにとっての上役、太って大力な料理人スムールイが、年にあわせては背の伸びた、泣ごとを云ったことのないゴーリキイの天性に何か感じるものがあり、彼に目をかけた。午後の二時頃、暫く手がすくと、彼は号令をかけた。
「ペシコフ、来い!」
スムールイの船室に行くと、彼は小さい皮表紙の本を渡した。
「読んで見な!」
ゴーリキイはマカロニ箱の上に腰かけて声高く読む。「……左胸のあらわなるはハートの無垢なるを示し……」
すると、煙草をふかしつつ仰向に横になっているスムールイが、口を挾む。
「誰のがあらわなんだ?」
「書いてないよ」
「女の胸だろう……。チェッ、放蕩者ばっかりだ!」
最初のうち、この「ペシコフ、来い」の号令はゴーリキイを苦しめた。読んでいるうちにスムールイが眠ってしまったように見える。すると彼は音読をやめた。否応なく読ませられることから胸のわるくなるような思いのするその本を眺めまわしていると、スムールイは、嗄れ声で皿洗い小僧に催促した。
「お――、読みな」
スムールイの黒トランクの中には『ホーマー教訓集』『砲兵雑記』『セデンガリ卿の書翰集』『毒虫・南京虫とその駆除法、附・此が携帯者の扱い方』などという本があった。始めの方がちぎれて無くなってしまっている本。終りがない本。そういう本がつまっている。
スムールイはゴーリキイに向って「口癖のように云いきかせた。」
「本を読みな。わからなかったら七度読みな。七度でわからなかったら十二遍読むんだ!」
そして、自分や、周囲のものが日から日へと過している無駄な生涯を顧みて、肥った獣のように呻き、深い物思いと当途のない憤りに沈んで荒っぽく怒鳴るのであった。
「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ!」
「豚の中にいては、お前の身が台無しだ。俺はお前が可哀そうでならねえ。奴等もみんな可哀想でならねえ」
このスムールイは、呆れる程ウォツカを飲むが酔っぱらったためしがなかった。水夫長も料理人も、船じゅうのものがこの男の怪力と一種変った気風に一目置いていた。夕方、スムールイが巨大な体をハッチに据えて、ゆるやかに流れ去って行くヴォルガの遠景を憂わしげに眺めながら、何時間も何時間も黙って坐っているような時があった。こういう時の、スムールイを皆が特別に怖れた。
禿頭の料理番が出て来て、そうやって坐っているスムールイを見ると、やや暫く躊躇した後、遠くの方から声をかけるのであった。
「――魚がどうもよくねえんだが……」
スムールイは顔も振向けず歯の間から返事した。
「そんなら漬物で和《あ》えろ……」
「でも魚スープか蒸焼を注文されたら?」
「作れ。どうせ食う」
ゴーリキイには、こういう場合のスムールイの心持が通じた。スムールイを憐む感情が湧いた。ゴーリキイは自分の心にも似たような黒い、激しいものが答えられない疑いとして煮え立つことを既に幾度か経験しているのであった。
例えば、汽船の皿洗い小僧として、自分という人間は朝から夜中まで皿を洗う。鉢を洗う。ナイフを磨き、フォークと匙を光らせ
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