なければならない。だが、一方には、全く別にそうやって洗われた皿を一つ一つよごし、鉢を使い、テーブルに向ってナイフや匙をきたなくしてゆく人間がいる。それらの人は平気に、当然なこととして笑いながらタバコをふかしながら、それをやっているのだが、何故これが当然なのだろう? 何故、一方には何でも辛棒してしなければならない人間があり、もう一方にはそれらの人々に何でもさせたその結果を利用していることの出来る人々が存在するのであろうか。彼の周囲には、泥酔や喧嘩や醜行やが終りのない堂々めぐりで日夜くりかえされている。だが、それらすべては何のために在るのだろう。
スムールイは、麦酒を飲みながらしみじみとゴーリキイに云った。
「お前がもう少し大きかったら、いろんなことを教えてやるのだがなあ。俺は人に語るべきものを持っている。俺は馬鹿じゃない。……マア、お前は本を読むこった。本の中には何でも必要なことがある。本はいいもんだ」
或る時はこうも述懐した。
「俺が金持だったら、お前を勉強に出してやるんだがなあ。無学な人間は牛と同じこった。軛《くびき》をかけられるか、つぶしにされるんだ。それでいて御本人は尻尾を振るばっかりと来ていらあ」
スムールイの云う言葉は、ゴーリキイの感受性の鋭い心の中に落ちて、反響をおこし、その現実観察力と発育の肥料となった。
月が皎々とヴォルガとその岸の草原の上を照らしている深夜、皿洗いゴーリキイは船尾に坐りこんで、「涙が出そうになるまで夜の美観にうたれた。」汽船の後から長い綱にひかれて艀舟《はしけぶね》がついて来てる。それは赤く塗ってあり、甲板に鉄格子が出来ている。追放や苦役に決った囚人がそこに入れられて輸送されているのであった。舳先に歩哨の銃剣が燭火のように光っている。艀舟の中は静寂で月の光が豊かに濯《そそ》いでいる。ゴーリキイは、昼間の疲れと景色の美しさに恍惚としつつ思うのであった。「善良な人間になりたい。沢山の人々にとって大切な人間になりたい――。」『タラス・ブーリバ』を読み、『アイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンホー』をよみ『捨児トム・ジョーンズの物語』を読み、知らず知らずの間に読み馴れて、ゴーリキイには今や本を読むことが何よりの楽しみになって来た、「本に物語られてあることは気持よい程生活とかけ離れていた。」ところで毎日の実際の生活といえば、それは益々辛くなって行くばかりである。
汽船では働いている仲間が、精神を痺らす奴隷的な労働と泥酔との暇に、仲間同士性悪な悪戯をしかけるばかりでなく、袋を背負い、背中を曲げ、十字を切りながら乗りこんで来る船客たちも、十二歳のゴーリキイの心に一種名状し難い侮蔑的な重苦しい感じで圧えつけ、夜眠っても忘れることの出来ない深い憂鬱をひろげた。船のどっかで喧嘩が始ったとなると、船客たちは忽ちそのまわりに集った。そして口笛を吹いたり、嗾《け》しかけたり。その喧嘩が厭わしく痛ましければ痛ましい程喜びに酔ったように見える彼等。船の機関の何処かが破裂して甲板が水蒸気で濛々となったりした時、実際の危険はなくても、その予感でもう怯え、戸惑い、喚き立てる船客等の恐怖心のつよさ。しかも、喧嘩も、恐慌もない時には、低いテントの下に坐り、或は寝そべりながら飲んだり食ったりし、親しげに真面目に語り合いながら河の面を見たりしている彼等。
ゴーリキイにはこれらの人々が「善人なのか、悪人なのか、平和好きなのか、悪戯好きなのか、又どうしてこんなに酷い、飽くことない意地悪なのか、どうしてこう意久地なくおとなしいのか」分らない。そして、この如何にもおとなしく、見るも気の毒な程素直な灰色の人々が、突然「その従順の殼を突き破って、むごたらしい、無分別な、そして大抵は不愉快極まる乱暴を爆発させるのを見るのは、実に意外であり」ゴーリキイの心に不可解な人生の姿の怖ろしさを覚えさせるのであった。
声をあげて泣き出しそうな心持でスムールイとわかれ、下船した後、ゴーリキイは再び因業な嫁姑のいがみ合っている元の製図師のところで働くことになった。
日夜妻と母親との口論に圧しつけられながら食堂のテーブルに製図板をのせて、ニージニの商人の倉庫だの店の修繕だのの図を引いている主人は、遠縁のゴーリキイに、約束どおり製図の修業をさせようとした。耳に鉛筆を挾み、長い髪をした主人が、或る日、両手に厚紙の巻いたのと、鉛筆、曲尺、定規とをもってゴーリキイの居場所である台処へやって来た。
「ナイフ磨きがすんだら、これを描いて御覧」
手本の紙には、沢山の窓と優美な飾のついた二階建の家の正面が画いてある。ゴーリキイは「本当の仕事と修業の始ったのを悦び」すぐ手を洗って修業にとりかかった。定規をつかってすべての水平線を引いたところまでは上出来であった
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