した祖母さんは又、悪魔を見ることも稀でなかった。悪魔が屋根からもんどりうって飛ぶ様子を想像して、ゴーリキイが笑うと、祖母も笑い出し、
「悪魔はふざけるのが好きだからなあ。全く小ちゃな子供のようさ」
 家から火事が出かかった時、火の子のように活動してそれを消しとめたのはこの祖母さんであった。胡瓜の漬けかた、クワスの作りかた、赤坊のとりあげかたを誰にでも親切に教えてやるのも、この祖母さんなのであった。
 祖父の家には、荷馬車屋、韃靼人の従卒、軍人と、お喋りで陽気なその細君などが間借りしていて、中庭では年じゅう叫ぶ声、笑う声、駈ける足音が絶えないのであったが、台所の隣りに、窓の二つついた細長い部屋があった。その部屋を借りているのは、痩せた猫背の男で、善良そうな眼をもち、眼鏡をかけた一人の男であった。
 何か祖母から云われる度にその下宿人は「結構です」と挨拶するので「結構さん」というあだ名がついている。小さいゴーリキイは、この下宿人の暮しぶりに非常な好奇心を動かされた。彼はよく物置きの屋根の上に這い上っては、中庭ごしにその下宿人の窓の中の生活を観察した。
 その部屋にはアルコール・ランプがあった。いろいろの色の液体の入った罎、銅や鉄の屑、鉛の棒などがあった。それらのゴタゴタの間で「結構さん」は、朝から晩まで鉛を溶かしたり、小さい天秤で何かをはかったり、指の先を火傷をしてうんうんとうなったり、すり切れた手帳をとり出して、それへ何かしきりに書き込んだりしている。
 ゴーリキイは興味を押えられず、或るときお祖母さんに聞いた。
「あの人は何してるの?」
 するとお祖母さんはこわい声で、
「お前の知ったこっちゃない、だまっていな」
と言い、おばあさんが奇妙に警戒するばかりでなく、家中の者、下宿人仲間まで揃ってこの毛色の変った下宿人を愛さなかった。みんな「結構さん」をかげでは嗤《わら》った。贋金つくり、魔法師、背信者だのと云って噂している。
 ゴーリキイはだんだんこの「結構さん」と仲よくなった。ある晩、有名な物語上手である祖母の話を聞いているうちに、この「結構さん」は激しく涙を落しはじめ、興奮して長くしゃべった揚句、いきなり恥かしそうに、皆のいる部屋から出て行った。人々は極り悪るげに見交しながら苦笑した。荷馬車屋が「旦那方はみんなあんな風じゃ。」不機嫌に、毒々しく云い放った。翌日その「結構さん」が祖母の傍へぴったりよって、驚くほどの単純さで「僕は恐ろしいほど一人ぼっちです。」と云っているのをゴーリキイは聞いた。その言葉がゴーリキイの心につきささった。家中で、幼いゴーリキイのいうことに耳を傾けてくれるのは祖母をのぞいてはこの「結構さん」ばかりであった。祖父はゴーリキイを怒鳴りつけた。
「無駄口しゃべるな。悪魔の水車め!」
 だが「結構さん」は、ゴーリキイの話を注意深く聞くばかりでなく、微笑しながら、しばしば彼に云った。「ふむ、そりゃ兄弟、そうじゃないよ、そりゃお前が自分で思いついたのさ。」或は、二つの優しい打撃で「嘘つけ兄弟!」そしてゴーリキイの話の中に織り交るすべての余計な不信実なものを切り去るのであった。又この「結構さん」は、極くありふれた云い方で、しかも野蛮な環境の中で暮している幼いゴーリキイの智慧の芽生えを刺戟するようなことを云った。例えば、彼は云う。
「あらゆるものを取ることが出来なくちゃならない――分るかい? それは非常にむずかしいことだ、取ることが出来るということは……」
 まだ字も書くことを知らない小僧であるゴーリキイには「結構さん」のその言葉はすぐ分らなかった。しかし、言葉は心の中に残っていて、何か特別な心持を伴って繰かえし思い出された。何故なら、この簡単な「結構さん」の言葉の中には彼の心をひきつけ忘らることの出来ない秘密があった。石っころだの、パンのかたまりだの、茶碗、鍋だのをとるだけのことであるならば何も「結構さん」のむずかしがる特別な意味はある筈はないのだから。
 祖母の家の中庭の隅に、誰にも見捨てられた苦蓬《にがよもぎ》の茂った穴がある。ゴーリキイは「結構さん」と並んでその穴に腰かけている。ゴーリキイは「結構さん」に訊いた。
「何故あの人達は誰もお前を愛さないの?」
「結構さん」はゴーリキイを自分の温い脇腹に抱きよせ、目くばせしながら答えた。
「他人だからさ――分るかい? つまりそれだからさ。ああいう人達でないからさ」
 彼等とは異った一人の者「他人」として「結構さん」はゴーリキイの、騒々しくて、悪意がぶつかり合っているような幼年時代の生活の中に現れた最初のインテリゲンツィアであった。が遂にこの「結構さん」が祖父の家から追い出される時が来た。それは或る家畜の群の中に一匹たちの違う動物がまぎれ込んだ揚句、やがていびり出される
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