のに似ていた。はっきり説明もつかないような憎悪が、「結構さん」を追ったのであった。ゴーリキイは深い悲しみの感情をもって「幼年時代」の中に書いている。「自分は故国にいる無限に多い他人――その他人の中でもよりよい人々の中の最初の人間と私との親交は、このようにして終った。」
この物語はゴーリキイにとって記憶から消えぬものであったと共に、今日の読者である私たちの心をも少なからず打つものがある。一八六〇年の終り、七〇年代の初頭にかけてのロシアの民衆生活の重い暗さと、そこへ偶然まぎれ込み、光りの破片となって落ちこんで来たのは「結構さん」のような知識人のタイプ、「おお、他人の良心で生きるものではない」と嘆く一種の敗残者であったということ。しかも、同じ貧窮と汚穢の中に朝から晩までころがされながら、尚民衆は「結構さん」の中に「旦那」「他人」を嗅ぎわけて、本能的な仲間はずれに扱ったということ。それらが、幼いゴーリキイの知性の目覚まされてゆく生活の過程として、私共の心を打つのである。
更にこの「結構さん」とのことで、計らずゴーリキイの全生涯の方向を暗示するまことに面白いエピソードが「幼年時代」に語られている。
或る日、「結構さん」の部屋で、「結構さん」は煙の立つ液体をいじって部屋中えがらっぽい匂いで一杯にしている。ゴーリキイはボロのしまってある箱の上に腰かけている。そして、二人は話している。
「お祖父さんは、お前はもしかしたら贋金を拵えてるんだって云ってるよ」
「お祖父さんが?……うむ、そう。――それはあの人がいい加減をいってるんだ! 金銭なんぞと云うものは、兄弟――下らんものさ」
「じゃ何でパンの代払う?」
「うむ、そうだね――パンの代は払わなくちゃならない。まったくだ……」
「そうだろう? 牛肉代だっておんなじさ」
「牛肉代だってか……」
彼は静かに、驚嘆するほど可愛く笑い、まるで猫にするように私の耳を擽って云う。
「どうしても僕はお前と口論は出来ない――お前は私を参らせるよ、兄弟。それよりも、さあ、黙ってよう……」
この小さいが逞しい人生についての問答は、後年チェホフが云った一つの言葉を思い起させる。二十四歳で、ロマンティックな作家として世に出たゴーリキイに向って、チェホフが「知っていますか? 君はロマンティストじゃない、リアリストですよ。知っていますか?」と云った、そのことを思い起させるのである。
七歳になってゴーリキイは祖父から教会用の古代スラヴ語で読み書きの手ほどきをされた。八つで小学校に入れられたが、この時代、既に祖父は破産し、染物工場は閉鎖され、祖父、祖母、ゴーリキイの三人は、地下室住いにうつった。
吝《しわ》くて狂人のようになった祖父と五十年連添った祖母との間に不思議な生活ぶりが始った。
祖父は倒産した家を始末する時、祖母の分としては、家じゅうの小鉢と壺と食器とをやっただけであった。年より夫婦は茶から、砂糖から、聖像の前につける燈明油まで、胸がわるくなるほどきっちり半分ずつ出しあって暮しはじめた。その出し前について、いつも狡い計略をするのは祖父である。アクリーナ祖母さんは、再びレース編をやり出した。そして、ゴーリキイも「銭を稼ぎはじめた。」
休日毎に朝早くゴーリキイは袋をもって家々の中庭や通りを歩き、牛骨、襤褸《ぼろ》、古釘などを拾いあつめた。襤褸と紙屑とは一プード二十|哥《カペーキ》。骨は一プード十|哥《カペーキ》か八|哥《カペーキ》で屑屋が買った。彼はふだんの日はこの仕事を学校がひけてからやった。
屑拾いよりもっと有利な仕事は材木置場から薄板をかっ払うことであった。一日に二三枚は窃《ぬす》んで来られた。いい板一枚に家持の小市民は十|哥《カペーキ》ずつ呉れる。この仕事には仲のいい徒党があつまっていた。モルト※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]人の乞食の十歳になる息子のサーニカ。大きい黒い目をした身よりのないカストローマ。十二歳の力持ちのハーヒ。墓地の番人で癲癇持ちのヤージ。一番年かさなのは後家で酒飲みの裁縫女の息子グリーシュカ。これは分別の深い正しい人間で、熱情的な拳闘家である。
後年、ゴーリキイは当時を回想して書いている。かっ払いは「半飢の小市民にとって生活のための殆ど唯一の手段、習慣となっていて、罪とはされていなかった。非常に多くの尊敬すべき一家の主人が、『川で稼ぎ足した。』大人は自分の首尾を誇った。子供はそれを聞いて学んだ」のであった、と。
ゴーリキイの小学生生活は、断続した五ヵ月の後全くやめになってしまった。或る士官に再婚していた母のワルワーラが良人に捨てられた状態で死ぬと、祖父はその葬式を終えて数日後ゴーリキイに云った。
「さて、レクセイ、お前は俺の首にかかったメダルじゃねえ――お前のいる場処
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