敏感な心に一縷の光りと美の感情を吹きこんだのは、祖母アクリーナの一種独特な存在であった。子供の時分は母親につれられて乞食をして歩いたアクリーナ。八つ位からレース編の女工になって素晴らしい腕をもっていたアクリーナは、二十二歳でヴォルガの船夫頭をしていたカシーリンの母親に見込まれて嫁入って来たのであった。祖母は小さいゴーリキイに物語ってきかせた。
「祖母さまのおっ母がそれとなし気をつけておらを観ておったのだ。おらは女工だ。乞食の娘だ。だからおとなしくすべえ。……おっ母というのは錠形《カラーチ》パンみたいで悪い心の女であった。口にも云えねえ。……」
だが、この祖母は、自分の辛酸な閲歴の中から慾心のない親切と人間の生活の智慧に対する信頼とを見つけ出して来た稀有な心の持主であった。ロシアの古い民謡を実にどっさり知っていてそれを上手に唄い、祖父のいない晩の台所での団欒がはじまると、ふだんは太った重い体がどうしてああも不思議な魅力を示すかと驚くような踊りをおどった。特にその物語は、すべての聴きてを恍惚とさせる熱と抑揚とを持っているのであった。台所の炉辺で、或は家じゅうを荒れている気違い騒ぎから逃げ込んだ屋根裏の祖母さんの小部屋の箱の上で、ゴーリキイが話して貰ったロシアの沢山の伝説、聖者物語、又祖母さんの見て来た様々な生活の物語は、窒息するような生活にはさまれているゴーリキイの心に、広い世の中への漠然とした憧れ、生活の歓び、期待を養ったのであった。
祖母さんは朝、目をさますと、先ず荒い鼻息を立てて顔を洗い、さて聖像の前に立った。猫背の背中を真直にし、頭をふりあげ、愛想よくカザンの聖母の丸い顔を眺めながら、彼女は大きく念を入れて十字を切り、熱心に囁くのであった。
「いと栄えある聖母さま、今日もあなたの恵みを与え給え。おん母さま」
地べたにつく程低くお辞儀をすると、のろくだんだんに背中をのばして、再び次第に熱心に感動的にささやいた。
「喜びの泉よ、いと浄き美女よ、花咲く林檎の樹よ……」
祖母は殆ど毎朝、新しい賞讚の言葉を発見した。そしてそれが小さいゴーリキイの心に快い緊張をよび醒した。言葉の流れる温い美しさ、真実のこもった単純な心から賞讚にじっと聴きいるのは心持よかった。
ゴーリキイは「非常に早くから祖父はある神をもっており、祖母は又別の神をもっていることを理解した。」緑色の鋭い賢い眼をした祖父の神は、常に人間の誤ちに目をとめていて、それを罰したり、こらしめたりするのが仕事の、威嚇的な形式的な神であった。祖父から朝夕の祈祷をおそわって、しっかり覚え込んでいたゴーリキイは、体を振り、甲高い声で祖父が祈るのを聞いていた。そして「祖父が間違えはしまいか、一言でも抜かしはしまいか?」と一生懸命跡をつける。たまにそういうことがあると、ゴーリキイの心に「人の失敗を喜ぶ意地のわるい感情を呼び醒した。」
「お祖父さん、今日は『満たすものなり』を抜かしたよ」
「嘘だろう?」不安そうに疑りぶかく祖父は訊いた。
「抜かしたんだよ!」
ゴーリキイは宙で祖父が忘れた祈祷のきまり文句をとなえる。祖父は極りわるそうに瞬きしながらゴーリキイの記憶のよさを褒めた。やがて祖父さんは、こういう揚足とりに対しては何かできっとこっぴどくゴーリキイに仕返しをするのであったが、暫くでも祖父さんをまごつかせたことで、ゴーリキイは「凱歌をあげた。」
これにくらべて祖母さんアクリーナの神は、何と親密で、人間のようで、苦痛を慰め、若返らす力をもっているものであったろう。祖母さんの神は、この世の中のことで分らないことと知らないことを持っている神であった。ゴーリキイは、少しびっくりして訊ねるのであった。
「神だって知らないことがあるの?」
すると、祖母は静かに、悲しげに答えた。
「もし神様が何でも御存じなら、きっと、人間だとてこんなにどっさり悪いことはすめえ。神様は多分、天上から地上のおれ達皆を眺めて、時にはどんなに涙をこぼしたり、声をあげて泣いたりしなさるこったろう。『お前ら人間達よ、人間達よ、可愛い俺の人間たちよ! おおどんなに俺にはお前達が憐れじゃろう!』」
こういう神はゴーリキイに近く、又わかり易かった。時々ゴーリキイが大人の醜い争いに義憤を感じて、例えばよその上さんが穴蔵へ下りたところを上から揚げぶたを卸して封じこめたりすると、祖母はゴーリキイの肚にしみとおるような言葉を優しく云った。
「いいか、レニーカ、可愛い子や。大人に混っちゃならねえ。お前、このことはしてはならねえことと自分で禁じるだよ。な、大人は損われた人達よ、あの人たちはもう神に滅ぼされた、だが、お前はまだそうじゃねえ――だから、子供の智慧で暮しな。誰がどんなにわるかろうと、それはお前のことじゃねえ」
この活々と
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