とうに結婚しました。私たちは只婚礼をしなくちゃならないの」
「ワシリー・ワシリーエフが俺にワーリャを呉れねえことはわかっている。だから、俺はあの娘を盗みます。唯お前は俺たちを助けて下さい。石で打ってもいい。どっちみち俺はゆずらない」
 ひっくり返るほどたまげながら、「こうなりゃ、ほかになんとしよう」アクリーナは「マクシムの額とワルワーラの編髪に祝福した」
 若い者たちはアクリーナの思いやりのある才覚で、こっそり教会で婚礼の式をあげることが出来たのであった。が、ヴォルガの曳舟人足から稼ぎためて、今は九年間も改選なしの職人組合長老にまでなっているワシリー・カシーリンにとって、謂わば渡り職人のようなマクシムに一人娘を呉れてやることなど我慢出来るものではない。ワシリーの日頃の自慢は、ワーリャは貴族へ、旦那へ嫁入らすということなのであった。若夫婦はゴーリキイが生れる迄勘当の扱いであった。
 孫アリョーシャ(ゴーリキイ)の誕生は、一時、気狂いのように荒々しく慾張りな、カシーリン爺さんの心持をも和らげたように見えた。若い夫婦は老人の家へ来て暫く一緒に暮したが、確かりしたマクシムに対するワーリャの兄弟共ミハイロとヤーコブの嫉妬が恐ろしい奸計を企てさせた。或る厳冬、マクシムを誘ってこの義兄弟どもは池へ出かけ、スケートと見せかけて、氷の裂け目からマクシムを水の中へ突落した。マクシムは氷のふちへ手をかけて浮き上ろうとする。ミハイロとヤーコブとは、ここぞとばかりその手の指を踵で踏みたくる。
 マクシムの命を救ったのは彼の沈着で豪毅な気性と素面《しらふ》であったことであった。この椿事のためにマクシムは七週間も患った。その夏ヴォルガ河口に在るアストラハン市で凱旋門を建てる仕事があって、マクシムは妻子をつれ移住した。四年ぶりでニージニへ戻る船中で彼はコレラで倒れたのであった。

 父親が死んでから、小さいアリョーシャ(ゴーリキイ)は母親のワルワーラと一緒に祖父の家で暮すことになった。が、この鋭い刺のあるような緑色の眼をした老人は、一目見たときからゴーリキイの心に本能的な憎みを射込んだと同時に、この祖父を家長といただいて生活する伯父二人とその妻子、祖母さんに母親、職人達という一大家族の日暮しは、幼いゴーリキイにとって悪夢のような印象を与えた。
 深くかぶさった低い屋根のある、薔薇色ペンキで塗った穢
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