い家の中には二六時中怒りっぽい人達が気忙しく動き廻り、雀の群のように子供達が駈けずり廻った。ワルワーラが不意に戻って来たので、伯父たちの財産争いは一層激しくなった。食事の間に祖父さんを中心に掴み合いが始ることさえ珍しくなかった。
 たまにおとなしく台所にかたまっていると思うと、この大人達は自分が先棒になって、半分盲目になっている染物職人のグレゴリーの指貫をやいて置いて哀れな職人が火傷するのを見て悦ぶ有様である。子供らは、家にいれば大人の喧嘩にまきこまれ、往来での遊戯といえば乱暴を働くことと殴り合いとであった。小さいゴーリキイは、心の疼くような嫌悪、恐怖、好奇心を湧き立たせながら「濃いまだら」のある妙な生活を観察し、次第に自分や他人の受ける侮蔑や苦痛に対し、心臓をひんむかれるような思いを抱いた。
 悪態、罵声、悪意が渦巻き、子供までその憎悪の中に生きた分け前を受ける苦しい毎日なのであるが、その裡で更にゴーリキイを立腹させたのは、土曜日毎に行われる祖父の子供等に対する仕置であった。鋭い緑色の目をした祖父は一つの行事として男の子達を裸にし、台所のベンチの上へうつ伏せに臥かせ、樺の鞭でその背中をひっぱたくのであった。ゴーリキイはこの屈辱に堪えることが出来なかった。死んだ父親のマクシムはゴーリキイを打擲したことはなかった。だと云って、五つの子供が一週間何一つ折檻の種をつくらずに暮すことなど、どうして出来よう。或る土曜日、ゴーリキイは猛烈に抵抗して猶更祖父さんからひどくひっぱたかれ、最後まであやまらないで気絶したことがあった。このことでゴーリキイは熱病にかかり、永い間寝床から起きられなかった。ほかの従兄弟らは、依然として土曜日になると樺の鞭をくって泣き声を立てつづけたが、ゴーリキイの抵抗は遂に祖父さんを屈服させることが出来たのであった。
 アレキサンドル二世が形式的な農奴解放を行ったのは一八六一年であった。ゴーリキイが生れた時分、農奴制そのものは廃止されていた。しかしながら、二百五十年間に亙ってロシアの大衆の生活を縛りつけていた封建性は実に深く日常の習慣に滲みこんで、家庭内における父親の専横、主人と雇人との関係の専制的なことは、恐ろしいばかりであった。ゴーリキイの祖父の家の生活は、その息づまるような一つの標本なのであった。
 こういう幼年時代の暗い荒々しい境遇の中でゴーリキイの
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