反撥し、それを軽蔑している。この人々にゴーリキイはつよく惹きつけられた。そして「彼等の辛辣な環境に沈潜して見ようという希望」に捕えられた。
ゴーリキイは屡々泥棒のバシュキンやけいず[#「けいず」に傍点]買いのトルーソフなどとカザンカ川を越えて野原へ、灌木の茂みの中に入ってゆき、いかがわしい彼等の商売のこと、更にもっと頻繁に、生活の複雑さについて、人間の関係の不思議な縺れ合いについて、何よりも多く女について話しながら、飲んだり食べたりした。世界のすべてに対して嘲笑的に敵意をもっているこれ等の人々の話、自分自身について無関心なこれ等の人々の物語には、町人生活の息づまる暗さから脱しようとし、而も大学で勉強しようという輝いた空想――高まろうとする欲望を貧という現実の力で思いやりなく砕かれたゴーリキイの若く激しい感情を掴むものがある。彼等の人生に対する抗議に、ゴーリキイは自分の憤りにみちた傷心がこめられているように感じる。けいず買いのトルーソフは、こういう人生の微妙な岐路にあるゴーリキイを眺めて、そして、云うのであった。
「マクシム、お前は泥棒の悪戯《わるさ》には入るな! 俺は考えるんだが、お前には他《ほか》の道がある。お前は精神的な人間だ」
「精神的って、どういう意味だい?」
「何に対しても羨望ということがなくて、唯、知りたいっていう心だけ在る人間のことを云うんだ……」
ゴーリキイは、これは当っていないと思う。だが、彼の天質に蔵されている健全な生活力が、この虚無的な雰囲気との摩擦の間に、一つの新しい疑問の形をとって、徐々にその働きを現した。これらの連中は、いつ、何を話しても、とどのつまりは「何々であった[#「であった」に傍点]」「こうだった[#「だった」に傍点]」「ああだった[#「だった」に傍点]」と万事を過去の言葉でだけ話す、その事実にゴーリキイの観察と疑惑がひきつけられた。意味深い彼等のこの特性の発見は次第にゴーリキイの鋭い心に或る恐怖を感じさせた。ゴーリキイの精神は激しく、よりよい人生の可能を求めてここに来ているのであった。彼は未来を、これからを、よりましな「何ものかであろう[#「であろう」に傍点]」ところの明日から目を逸らすことが出来ない。ゴーリキイは彼等のように生きてしまった人々[#「生きてしまった人々」に傍点]の一人ではなかった。ゴーリキイは生きつつある者、
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