しかも熱烈に生きんとしているものの一人なのである。「このことが、彼等から私を去らしめた。」マクシム・ゴーリキイは、その自伝的な作品「私の大学」(一九二三年作)の中で活々と当時を回想している。「私は外部からの助力を待たず、幸福な機会というものにも望みをかけなかったが、私の中には次第に意志的な執拗さが発達し、生活の条件が困難になればなる程、それだけ堅固な賢くさえある自分を感じた。私は非常に早くから人間を作るものは周囲の環境への抵抗であるということを理解した」のであったと。
 しかも、ゴーリキイはこういう意味深い記述の間に、当時まだプロレタリアートの力が階級として確立していなかったロシアの民衆の中にあって、彼のような立場の若者が、経なければならなかった社会的な危機とその歴史的な価値とを自覚して十分描き出していないことは、今日の読者の注目をひくところである。まだ階級としての小市民を知らず、ただそれに対して本能的な、執拗な反抗をしつつ、その反抗を系統づけ、方向を決めるプロレタリアの力が情勢として育っていないために危くも虚無的な、社会の破壊力の裡へ堕落しそうになった一箇の才能の※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》きは、私達に最も厳粛な同情と真面目な省察とを促すのである。

 今や、ゴーリキイは「ぼんやりした、しかしこれまで見たすべてよりももっと意義のある何ものかへの欲求」に燃えて、カザン市の貧民窟「マルソフカ」の一部に大学生プレットニョフと暮しているのであった。が、プレットニョフとゴーリキイとが暮しているのは、その有名な貧民窟の中にあっても部屋と名づけられない階段下の廊下の一隅であった。屋根裏へのぼる階段の下の廊下にプレットニョフの寝台が一つ置いてあり、廊下のつき当りの窓のところに机、椅子。それっきりしかなかった。ゴーリキイは夜その寝台に眠った。プレットニョフは昼間。
 貧しいこの大学生はカザンの新聞社へ夜間校正係として働き、一晩十一カペイキずつ稼いで来た。ゴーリキイに稼ぎのなかった日、この心を痛ましめる睦しい同居者たちは四切のパンと二カペイキの茶、三カペイキの砂糖だけで一日を凌ぐことも珍しくない。ゴーリキイは波止場稼ぎを屡々やすんだ。プレットニョフは若い孤独なゴーリキイの生活の困難と危険とを知って、彼と一緒に暮し、田舎の小学校教師になる試験を受けるようにとす
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