の「初恋について」の中に書いている。「こうして私の初恋の歴史――その悪い終末にもかかわらず、よい歴史は終りを告げた」と。
 巨大な歴史的矛盾の運びとトルストイとゴーリキイとの交友は、いろいろの点で興味を与えるが、女について二人の態度が全く相違しているのは面白いことである。トルストイはゴーリキイとの会話の間でも、もっとも多く神と百姓と女について話すのであったが、彼は女について妥協しがたい敵意をもち、女を罰することをよろこんだ。ゴーリキイは、女をいかなる醜悪な場面、条件においても理解すべきもの、哀れむべきもの、或は愛し尊敬すべきものとして観察し、女の情慾をもある時は一つの驚くべき力として感じている。ゴーリキイはトルストイの女に対する態度に対して純真な疑問を発している。「それはできるだけの幸福を汲みとることのできなかった男の敵意であるか?」と。だがこの女に対する態度の違いの根本原因は、めいめいの階級によって接触した女の種類と形態とがトルストイとでは全く異っていたことにこそあるのである。
 一八九八年、ゴーリキイは憲兵に家宅捜査をされた後検束されチフリスへ送られた。検挙は九年前にうけたのと二度目である。革命運動をしたというのであったが、証拠がなくて許された。
 一九〇一年、ゴーリキイは初めてペテルブルグに現れた。今は誰知らぬ者ない「フォマ・ゴルデーエフ」の作者、「三人」の作者、鋭く小市民性に反撥して人生の叡智を勇者の飛躍にあることを示した「鷹の歌」の作者、フランス・アカデミーのユーゴー百年祭にパリへ招待された国際的作家マクシム・ゴーリキイである。
 ある日ゴーリキイがペテルブルグの数多い橋の一つを歩いていると、理髪屋風の男が二人づれでゴーリキイを追い越して行った。が、一人の方がびっくりしたように小声で仲間に云った。
「見ろ、ゴーリキイだぜ!」
 もう一人の男は立ちどまってゴーリキイを頭のてっぺんから足の先までじろじろ眺め、やりすごしてから夢中になって云った。
「――えい! 悪魔め――ゴム靴をはいてやがら!」
 ゴーリキイはこの時すでに彼自身の表現によれば「マルクス主義者に近い」者となっていた。当時三十三歳であったゴーリキイより二歳年下のレーニンは妻クループスカヤとミュンヘンにいて社会民主党の全国的新聞『イスクラ(火花)』を出すために活動し、有名な「何を為すべきか」を書き上げた頃である。ゴーリキイは「小市民」、「どん底」と続けて戯曲を書いた。ゴーリキイといえば「どん底」と応ずるくらい世界に知られた傑作であるが、この戯曲の成功によって得た金で彼は「ズナーニエ」というペテルブルグの出版書肆を買いとった。恥を知らぬツァーの政府の言論と出版の自由の抑圧に抵抗する進歩的な書肆が必要であったためである。
 一九〇四年のメーデーは、日露戦争開始によって特別の意味をもつものであるが、その時のビラを書いたのは外ならぬゴーリキイであった。翌一九〇五年一月九日の日曜日、歴史の上で有名になった「血の日曜日」に、聖旗をかざした女子供を先頭とする約十万の民衆が、日露戦争の終結、政治的自由の保証、パンと職とをツァーに求めて冬宮広場に進んだ時、ガポン僧正の裏切りによって、聖像を先に立てて「父なるツァー」に請願のため行列して行った民衆は、冬宮を背にして並んだ兵士の発砲によって千数百の労働者がたおれた。その前、ゴーリキイはこの労働者に対する射撃を防ごうとして他の同志とともにウイッテと会い、熱心に談判したがきき入れられなかった。ツァーの砲火の下に罪なく無智な労働者、女、子供の血が雪を染める間、ゴーリキイは大衆に混ってこの歴史的殺戮の証人となった。戦慄すべき記録「一月九日」はかくて書かれた。引きつづいてロシアの各地に勃発した人民殺戮に対する抗議のストライキの間、ゴーリキイは正義の擁護者としてきわめて具体的な活動を行った。
 それを理由として政府はゴーリキイをペテロパーヴロフスク要塞にぶちこんだ。政府はロシアばかりか外国でまで行われたゴーリキイ死刑反対の大示威運動におどろいて、余儀なく釈放したのであった。
 不幸なロシア人民の解放運動資金を集めるためにゴーリキイは次の年アメリカへ講演旅行に出かけた。ツァーの秘密警察は手を廻してゴーリキイについての醜聞を流布させ、その計画を妨害した。ゴーリキイの肺病はこれらの激しい活動の間に悪化して来た。アメリカからの帰途イタリーのカプリ島により当分そこで静養することにし、一九一三年ロマノフ王家三百年記念の大赦によってロシアにかえるまで八年間カプリに止った。
 ところで、非常に一般化されている「どん底」に一言ふれるならば、この作は傑作であるにかかわらずゴーリキイの発展の歴史及びロシアの労働者階級の発展の歴史、どちらから見ても一時の後退を示した作品であった。ゴーリキイは正しい社会を建設するためのよりどころとなる社会的勢力を「フォマ・ゴルデーエフ」においては商人階級の中に求めたが発見し得ず、さらに「小市民」の中で、インテリゲンツィアのうちにも見出すことが出来なかった。彼は、そこでロシアの擡頭するプロレタリアートのうちにこそ進むべきであったのに、ゴーリキイはかえって作家生活の初期に彼をひきつけていた浮浪人の中へ、「どん底」へ、さらに深い心理観察をもって戻ってしまった。
 階級的自覚をもった労働者は一九〇七年に書かれた「敵」にはじめて姿を現した。ここでゴーリキイははじめて資本家と闘う労働者を描いた。さらに同じ年「母」が出た。レーニンの指導する社会民主労働党のロンドン会議に出席したりしたゴーリキイは、感激をもってロシアの労働運動の広汎、複雑な発展の過程を描写しようとし、革命的な労働者ウラソフの闘争と息子の生活につれての母ベラゲヤの社会に対する目のひらかれて来る過程を中心に置いた。
 新たなプロレタリアの描写を試みて、老練なるべきゴーリキイははなはだ興味ある若さ、未熟さ、英雄主義を作品に導き入れた。ゴーリキイはベラゲヤをネロ時代キリスト教殉教者のように描いた。労働者ウラソフが公判廷で行う演説は、説教者くさいところもある。プロレタリア解放運動の問題を、この作品でゴーリキイは経済的・政治的基礎においてとりあげず、むしろ道徳や、美の問題と混同してさえいるのである。では、「母」は一つの失敗の作であろうか? 決してそうでない。それらの欠点にもかかわらず、作者ゴーリキイの若々しく濁りない熱情、独特な誠実さにみちた調子、劇的要素によって、十分読者をひきつけ労働者の革命的行為の高貴さを理解させる力をもっている。少くとも資本主義国の支配者たちは映画化された「母」の輸入を許可することが出来ないだけ、強力な何ものかがあるのである。
 ロシアへかえってから一九一七年の革命まで、ゴーリキイは「幼年時代」、「人々の中」その他多くの自伝的回想風の作品を書いた。これらの作品においてもゴーリキイは、自分だけを中心として書かず、自分の周囲の種々さまざまの人々が、それぞれの時代、それぞれの場所で何を考え、どんな行動をしたかということを、鋭い感覚と善良さと、ありのままに人間を観察するすばらしい能力によって描いている。ゴーリキイの回想的作品が、今日の歴史のなかで、決して過去の物語ではなく、明日へ向って特殊な社会的意義をもっている理由である。

 世界を震撼させた「十月」がロシアに来た。
 レーニンを指導者とするこの偉大で困難きわまるプロレタリア革命の時期に、小市民出身であり、自身率直に告白している通り「怪しげなマルクシスト」であったゴーリキイは、きわめて複雑な経験をした。彼は永い革命活動の閲歴と正当な社会に対する理解によって、もちろんこの革命がロシア人民のための「自由への道」であろうことを見抜いた。当時彼が主宰していた『新生活』の紙上では、ボルシェヴィキの政策について正しい理解をひろめるため、またレーニンに対する逆宣伝の撃破のため、精力的な活動を惜しまなかった。人民委員会の顧問となって、ソヴェト政権のもとに行われる新文化建設のために、「学者の生活改善委員会委員長」となり、また『世界文学叢書』の刊行を指導した。十月革命と同時に亡命したアンドレエエフやクープリンを高給でソヴェト同盟での活動に召集しようと努力したのもゴーリキイであった。
 レーニンが、大衆の不幸というものに対して妥協のない憤激を持ち、その不幸はとりさることが出来るものであり、且つ大衆自身の力によってこそ取り除かれるものであるという明白な確信の上に立っていることは、深くゴーリキイを感動せしめた。
 しかしながら、ゴーリキイには当時のロシアの社会事情ではソヴェト政権が階級としてのプロレタリアートの独裁のもとに樹立されなければならないということは、政治的問題としてなかなか腑に落ちなかったらしい。彼は、インテリゲンツィアというものは無条件にいつも進歩的であるように考え違いしていた。そのために新しい社会は、無差別にインテリゲンツィアと革命的労働者との階級的混成指導部によって建設され得るのではないかという混乱した見解をもった。レーニンと意見が一致しかねたのはこの点であった。ゴーリキイは過去において、まだ労働階級の自覚が乏しかった時代、ロシアの革命の主導的な力はインテリゲンツィアであったという、社会史の一定の時期にあった現象に執着してこの見解をもったのである。
 ゴーリキイの「ヴェ・イ・レーニン」はまことにゴーリキイらしい飾り気なさ、温かさをもって彼とレーニンとの意見の相異についても書いている。ゴーリキイの誠意に満ちた、ひるむことのない、だが決してロシアにおけるプロレタリア革命の意味と、プロレタリアートの動かすべからざる革命的任務とを十分理解しているとはいえない批評や、提案や、依頼に対して、レーニンがある時は沈思し、ある時はまだるこそうに皮肉に、ある時は悲しげに同情的に応答した様子は、尽きぬ興味を与える記録の一つである。
 レーニンとゴーリキイとの間に見解の相異があるということは、その頃しばしば国内的にも国外的にも逆宣伝に利用されたが、当時の革命の指導者達は、一九一〇年にすでにレーニンによって洞察されていたゴーリキイに対する評価を決して変えなかった。
「プロレタリア芸術のことに関しては、エム・ゴーリキイは一個宏大なプラスである」と。
 一九二三年、レーニンは自身もう病気で苦しんでいたにかかわらずゴーリキイの健康をひどく心配し、すすめてイタリーのソレントに住まわせた。
 ゴーリキイのイタリーにおける五年間の生活は、たえまない注意でソヴェト同盟の建設を研究することと、今こそ彼の目にも全貌を示した反革命的陰謀からソヴェト同盟の建設を擁護するための、大小様々の活動であった。革命運動から転落してイタリーへ行ったと思いたがっていた資本主義国の支配者は、ゴーリキイが年ごとにプロレタリアートの政党ボルシェヴィキの政策を理解し「十年」「私の祝辞」において、ますますそれに接近することを見て失望した。一九二六年から着手された「四十年」でゴーリキイは十月革命までのロシア近代の生活を描こうとした。ゴーリキイの誕生六十年記念祭にあたって、ソヴェト同盟・共産主義アカデミーで行われた討論は、ゴーリキイをもっとも重大な使命を果した文豪であるとした。〔伏字二十八字〕(この一行は復元できない)ロシア民衆の生活がいかなるジグザグの道をとおり、流血と犠牲をもって十月革命の大道へ辿りつき、更にその道を前へ前へと進んでいるかということを、その多様さ、複雑さ、矛盾のままの姿で描いた作家は、ゴーリキイなのである。
 一九三二年、ロシア革命第十五周年記念に、世界は一つの壮大な老勇士の前進を目撃した。六十四歳のゴーリキイは、その永い闘いと動揺の後、旧インテリゲンツィアという社会的集団とともに、階級から階級へ移行した。ソヴェトの建設、生活の現実をつらぬいてゴーリキイの個人主義的な理想主義は社会主義的世界観に高められた。ゴーリキイはソヴェト同盟の真の一員、プロレタリアートの政党の一員となった
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