ゅうの小鉢と壺と食器とを分けただけなのである。祖母は昔ならったレース編を再びやり出した。ゴーリキイも、「銭を稼ぎはじめた。」
 休日ごとにゴーリキイは袋をもって家々の中庭の通りを歩き、牛の骨、ぼろ、古釘などをひろった。またオカ河の材木置場から薄板を盗むことも(たまに)やった。それで三十カペイキから半ルーブリを稼ぎ、銭は祖母にやる。――この時代の仲のよい稼ぎ仲間とのほこりっぽい、だが多彩な生活の思い出を後年ゴーリキイは長篇小説「三人」のうちにいきいきと描いている。
 八歳になると、ゴーリキイの「人々の中」での生活がはじまった。祖父は彼を靴屋の小僧にやった。熱湯でやけどをしたゴーリキイが二ヵ月で暇を出されて来ると、次は製図工へ見習にやられた。そこで一年辛棒した。生活はあまり辛い。逃げ出して、ヴォルガ河通いの船へ皿洗いとして乗組んだ。
 月二ルーブリで、朝六時から夜中までぶっ通しに働かせられる合間、小学を五ヵ月行ったきりのゴーリキイは次第に本を読むことを覚え、プーシュキン、ディッケンズ、スコットなどを愛読するようになった。料理番スムールイが、ゴーリキイに目をかけ口癖のように云った。
「本を読みな。わからなかったら七度読みな。七度でわからなかったら十二回読むんだ!」そして、肥った獣のようにうめいて深い物思いに沈み、荒っぽくどなった。
「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ」ゴーリキイは、生涯の中に出会った四人の人生についての教師の一人として、このスムールイをあげている。スムールイは、一度ならずその嘘のような腕力をふるって水夫や火夫の破廉恥で卑劣ないたずらから少年ペシコフをまもったのであった。
 十歳の時、ゴーリキイは詩のようなものをつくり、手帖に日記を書きはじめた。日々の出来事と本から受ける灼きつくような印象を片はじからそこへ書きこんだのである。が、それと知った聖画商の番頭は、奇妙な反り鼻の小僧を呼びつけて、云いわたした。
「お前は抜萃帖か何かを作っているそうだが、そんなことはやめちまわなくちゃいけない。いいか? そんなことをするのは探偵だけだ!」
 一八八一年、ゴーリキイが十三の時、アレキサンダア二世が暗殺された。

 人生の矛盾がますますつよくゴーリキイの心を不安にした。彼の周囲に充満しているのは無智やあてのない悔恨や徒食、泥酔、あくまで互にきずつけ合う残酷などであるのに、彼が読む本は何と人間の智慧の明るさ、生活の美などについて語っていることであろう。当時のロシアをみたしていた生活の浪費の苦痛がゴーリキイの心を狩り立て、十五の年、彼は故郷ニージュニを出て、遂にカザン市へ出て来た。何とかしたら大学に入れそうに思ったのであった。
 ところが、カザンで若いゴーリキイを迎えたのは、一八六一年に歴史的ストライキをやり、数年後にはレーニンがそこで学ぶめぐり合わせになっていたカザン大学ではなくて、飢えであった。カザン大学正課にはないゴーリキイの「私の大学」時代がはじまったのである。
 ゴーリキイは、淫売婦や貧しい大学生、人生での敗残者などがごたごた棲んでいるカザンの貧民窟の一隅に、急進的な一人の学生と暮した。そこにはたった一つの寝台があるだけであった。学生とゴーリキイとは夜昼交代にそこへ寝て、ゴーリキイはヴォルガ河の波止場の人足をやって十五カペイキ、二十カペイキと稼ぐ。――ロシア人はヴォルガ河を「母なるヴォルガ」と呼んで愛するが、ゴーリキイの半生のさまざまな場面は洋々としたヴォルガの広い流れと共に動いている。冬になって河が氷結すると、ゴーリキイは波止場仕事を失って、或るパン焼工場へ入った。
 そこは月三ルーブリで十四時間の労働である。体も辛かった。更に精神的には、ゴーリキイにとって最も苦しい時代の一つであった。何故ならこの時代、ゴーリキイは近づき始めた新しい世界から再び切りはなされてしまったのである。
 カザンに来てからゴーリキイは数人の急進的インテリゲンツィアと知り合いになって、時々その研究会などへも出るようになっていた。長時間ぶっつづけの討論は時に彼を苦しめ、またこれらの「人民主義《ナロードニキ》」の学生達が、むっつり黙って、だが全身の注意を集めて参加しているゴーリキイの目の前で「生えぬきだ!」とか「民衆の子だ!」とか感嘆し合うのが少なからず彼にばつの悪い思いをさせるのであったが、ゴーリキイは、彼らに対して深い興味と渇望とをもって接した。少くとも、生活をいい方へ向けようと努力している一団の人々をゴーリキイは見たのである。
 この「人民主義」の学生達が「民衆」というものについて示す考えは、深くゴーリキイを驚ろかせ、且つ考えさせた。彼らは民衆を叡智と、精神美と善良の化身のように云うが、ゴーリキイが五つの年から観察し、まもれ、闘って来ている現実の生活で、彼は「このような民衆を知らなかった。」
 パン焼場での労働は学生達の集会へ出ることを不可能にした。当時の急進的学生は、憎むべき徒食階級に対置して「民衆」を観念的に理想化するにとどまり、誰一人実際にパン焼工場の地下室へゴーリキイを訪ねて彼を鼓舞しなければならぬという必要には思いいたらなかったのであった。
 ゴーリキイ自身の精神的飢餓と当時のロシア労働者の一部がインテリゲンツィアに対して抱いている辛辣な敵意が彼を苦しめた。その頃ゴーリキイはもちろん、労働者とインテリゲンツィアの対立を政治的に利用するために、どんな金を政府が撒いているかなどということは洞察しなかった。ゴーリキイは、その中でパン焼職工の連中に折を見てはもっと楽な、もっと意義ある生活の可能について啓蒙的な話をするのであった。このパン焼工場での生活の断面は「二十六人と一人」という名篇につよい筆致をもって描かれている。
 二十歳の時、ゴーリキイは自殺をしかけた。一八八七年の十二月のことである。ゴーリキイは市場で四つ弾丸のつまったピストルを買い、凍ったヴォルガ河の雪深い夜の崖にのぼって胸を撃った。弾丸ははずれた。彼はこの事件がすむと同時に、この経験を深く批判して、恥しく感じた。
 新しくよみがえった生活に対する真率な積極性によってゴーリキイは春になるとロマーシという「人民主義」の革命家と一緒に或る農村に入り、農民の自覚を促すための運動を始めた。その土地の富農たちの恐ろしい悪計によって、革命的であった農民イゾートはヴォルガ河のボートの中で頭をわられて殺され、ゴーリキイたちの店は放火され、そのどさくさにゴーリキイやロマーシももうすこしのところで殺されかけた。流刑地でのいろいろの危急の場合にきたえられていたロマーシの勇敢で適宜な防衛で命が助かった。
 村を出てからゴーリキイは裏海の漁業組合で働き、やがてドウブリンク駅の番人として働き、駅夫や人夫に地理や天文の本をよんで聞かせてやりながら、半分歩いてニージュニイにたどり着いた。その時分ロシアの辺鄙な田舎の果でもツァーの官吏や司祭らが、どんな腐敗した醜聞的日常生活を営んでいたかは、その時の経験を書いた「番人」その他にはっきり現れている。
 ニージュニイで再び急進的インテリゲンツィアの群に加わった。情勢は移って「資本論」などが読まれだしていた。然し、ゴーリキイの疑問と本能的な苦悩はかえって深まった。ニージュニイのこれらの連中のある者はマルクス主義に近づくや否や個人主義的毒素や利己主義や偸安で勝手にマルクスの理論をゆがめ、多くの者は唾棄すべき卑俗な「唯物論者」になり下った。彼らは一人一人の革命家が生死を賭してツァーリズムとたたかった前時代の運動の方法を嘲笑し、もし歴史的な必然性というものがあるというのが本当ならば、物事は俺たち抜きでも何とかなる! と、口笛を吹き出したのである。
 ゴーリキイはそういう口笛に合わせる笛をもって生れて来ていなかった。当時ロシアにはびこった機械主義的マルクス主義の理解によって、真理に近づこうとする正当な努力の方向をそらされたのはもちろんゴーリキイ一人でなく、例えば当時ニージュニイで急進的文化活動の中心をなしていた作家コロレンコはそのゆがめられた機械的見解に納得できないままに「唯物論」そのものまでを一種の流行的思想という風に見た。コロレンコは「人生は無数の妙にからんだゆがんだもので合わさっていて」、「それを理論的組立ての四角い中にはめこむことは困難である」と話し、ゴーリキイもそれはそう考えた。二人とも、コロレンコにあっては知的蓄積、ゴーリキイにあってはその鋭い生活的追求力にもかかわらず、正統なマルクスの唯物論というのは、複雑な現実を切って殺して理論の四角い枠にはめるのでなく、逆に最も錯綜し、からみあった事物そのものの根元的矛盾をそのいきいきした発展の道ゆきに於て明らかにし、見透しを与え、より真理に近づく可能性をもつものであることを理解し得なかったのである。
 このことはゴーリキイの生涯にあっては後々も或る尾を引いた。重大な時期に、例えばこの伝記の初めに書いた一九〇九年の哲学的論争の時期に於て、或は一九一七年の十月革命の時代におけるブルジョア・インテリゲンツィアの評価に際して、ボルシェヴィキの見解と一致し得なかったことの遠い根源となっているのである。
 読書にも討論にもゴーリキイは魅力を失った。「非凡、善、不屈、美と名づけられるべきすべての小さな、珍らしい細片」をじかに人々のうちからあつめたい欲望に刺戟されて、再び放浪の旅に出た。
 日雇い仕事でパンを稼ぎながら秋までほとんどロシアの南半分を歩きまわり、最後にチフリス(グルジアの首府)スターリンの故郷に落着いて鉄道工場に入った。処女作「マカール・チュードラ」がチフリス新聞『カウカアズ』に掲載されたのはまさにこの時なのであった。
 ゴーリキイは「マカール・チュードラ」をきわめて無邪気に書いた。輝くような話し手であった祖母に似てゴーリキイ自身なかなかたくみな話し手である。友達に放浪時代の見聞を話した。友達は感歎し、ぜひそれを書けとすすめた。そこで、ゴーリキイは書いた。頑丈な二十四歳のゴーリキイの胸に溢れるロマンチシズム、より高く、より強く、自由に美しく生きようとする憧憬を誇り高きジプシイの若者ロイコ・ゾバールの物語にもり込んだ。一篇の「マカール・チュードラ」は当時の蒼白い、廃頽的な、幻をくって溜息をついているようなロシアのブルジョア文壇に嵐の前ぶれの太い稲妻の光をうち込んだ。バリモント、メレジェコフスキー、ソログープ、チェホフもトルストイも、ロシアにどのような力ですでに労働階級が発育しつつあるかを理解しなかった。ゴーリキイもロイコ・ゾバールの物語では労働階級の存在にも問題にもふれていない。一見彼もプロレタリアートとは何ら無関係のようにある。それにもかかわらず、「マカール・チュードラ」を貫いて流れている熱い生活力、不撓な意志、卑劣を侮蔑する強い精神そのものが、おのずからプロレタリアの闘争と一脈相通じるものであった。ゴーリキイはそうと自身知らずに新興労働階級の代表として立ち現れた。どん底からの創造力の可能性をひびかせ初めたのである。
 このチフリスで、ゴーリキイは初恋のオリガがパリから二年前よりさらに美しくなり、良人をのこして帰って来ることを知った。狂喜のあまり彼は卒倒した。
 ニージュニイに帰った。ゴーリキイは月二ルーブリのひどい離家をかりて、オリガとその小さい花のような娘と三人で生活しはじめた。
 コロレンコとの友誼が深められた理解の上によみがえった。「チェルカッシュ」はこの時分コロレンコに励まされ、たった二日で書いたものである。
 ゴーリキイは自分の文学的労作について、だんだん真面目に考えるようになって来た。それと共に、フランス小唄のうまい、美食家の、「美しく煙草を吸い、奇智にとんで、男の知人を揺ぶる」ことのやめられない貴族学校出のオリガとの生活は、彼を歩いて来た道から脱する力をもっていることを理解しはじめた。ゴーリキイはオリガとしっかり抱き合い、黙ったまま、いくらか悲しんでわかれた。後年ゴーリキイはそ
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