革命の意味と、プロレタリアートの動かすべからざる革命的任務とを十分理解しているとはいえない批評や、提案や、依頼に対して、レーニンがある時は沈思し、ある時はまだるこそうに皮肉に、ある時は悲しげに同情的に応答した様子は、尽きぬ興味を与える記録の一つである。
レーニンとゴーリキイとの間に見解の相異があるということは、その頃しばしば国内的にも国外的にも逆宣伝に利用されたが、当時の革命の指導者達は、一九一〇年にすでにレーニンによって洞察されていたゴーリキイに対する評価を決して変えなかった。
「プロレタリア芸術のことに関しては、エム・ゴーリキイは一個宏大なプラスである」と。
一九二三年、レーニンは自身もう病気で苦しんでいたにかかわらずゴーリキイの健康をひどく心配し、すすめてイタリーのソレントに住まわせた。
ゴーリキイのイタリーにおける五年間の生活は、たえまない注意でソヴェト同盟の建設を研究することと、今こそ彼の目にも全貌を示した反革命的陰謀からソヴェト同盟の建設を擁護するための、大小様々の活動であった。革命運動から転落してイタリーへ行ったと思いたがっていた資本主義国の支配者は、ゴーリキイが年ごとにプロレタリアートの政党ボルシェヴィキの政策を理解し「十年」「私の祝辞」において、ますますそれに接近することを見て失望した。一九二六年から着手された「四十年」でゴーリキイは十月革命までのロシア近代の生活を描こうとした。ゴーリキイの誕生六十年記念祭にあたって、ソヴェト同盟・共産主義アカデミーで行われた討論は、ゴーリキイをもっとも重大な使命を果した文豪であるとした。〔伏字二十八字〕(この一行は復元できない)ロシア民衆の生活がいかなるジグザグの道をとおり、流血と犠牲をもって十月革命の大道へ辿りつき、更にその道を前へ前へと進んでいるかということを、その多様さ、複雑さ、矛盾のままの姿で描いた作家は、ゴーリキイなのである。
一九三二年、ロシア革命第十五周年記念に、世界は一つの壮大な老勇士の前進を目撃した。六十四歳のゴーリキイは、その永い闘いと動揺の後、旧インテリゲンツィアという社会的集団とともに、階級から階級へ移行した。ソヴェトの建設、生活の現実をつらぬいてゴーリキイの個人主義的な理想主義は社会主義的世界観に高められた。ゴーリキイはソヴェト同盟の真の一員、プロレタリアートの政党の一員となった。十九年前、大赦でカプリからゴーリキイがロシアに帰る時、レーニンはこういう手紙を彼に送った。「ロシア(新しいロシア)を巡遊し得るということは一人の革命的作家に――ロマノフ会社に対して一つの有能な打撃を与えるための百倍もよりよき機会を提供する……」と。
ソヴェト同盟へゴーリキイは帰って来た。今こそどんな手紙が、全世界にあってレーニンの示した社会発展の方向に向って生きる大衆から彼に送らるべきであろうか!
ゴーリキイは、ますます豊富なソヴェト同盟の社会的経験と可能性によって、ますます大なるプロレタリア文学の達成に進みつつある。彼は全ソヴェト作家団の再組織に関する委員会の指導者であると同時に、最近、卓越した一つの戯曲を執筆したという報道がある。[#地付き]〔一九三三年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「婦人公論」
1933(昭和8)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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