であった。ゴーリキイは正しい社会を建設するためのよりどころとなる社会的勢力を「フォマ・ゴルデーエフ」においては商人階級の中に求めたが発見し得ず、さらに「小市民」の中で、インテリゲンツィアのうちにも見出すことが出来なかった。彼は、そこでロシアの擡頭するプロレタリアートのうちにこそ進むべきであったのに、ゴーリキイはかえって作家生活の初期に彼をひきつけていた浮浪人の中へ、「どん底」へ、さらに深い心理観察をもって戻ってしまった。
階級的自覚をもった労働者は一九〇七年に書かれた「敵」にはじめて姿を現した。ここでゴーリキイははじめて資本家と闘う労働者を描いた。さらに同じ年「母」が出た。レーニンの指導する社会民主労働党のロンドン会議に出席したりしたゴーリキイは、感激をもってロシアの労働運動の広汎、複雑な発展の過程を描写しようとし、革命的な労働者ウラソフの闘争と息子の生活につれての母ベラゲヤの社会に対する目のひらかれて来る過程を中心に置いた。
新たなプロレタリアの描写を試みて、老練なるべきゴーリキイははなはだ興味ある若さ、未熟さ、英雄主義を作品に導き入れた。ゴーリキイはベラゲヤをネロ時代キリスト教殉教者のように描いた。労働者ウラソフが公判廷で行う演説は、説教者くさいところもある。プロレタリア解放運動の問題を、この作品でゴーリキイは経済的・政治的基礎においてとりあげず、むしろ道徳や、美の問題と混同してさえいるのである。では、「母」は一つの失敗の作であろうか? 決してそうでない。それらの欠点にもかかわらず、作者ゴーリキイの若々しく濁りない熱情、独特な誠実さにみちた調子、劇的要素によって、十分読者をひきつけ労働者の革命的行為の高貴さを理解させる力をもっている。少くとも資本主義国の支配者たちは映画化された「母」の輸入を許可することが出来ないだけ、強力な何ものかがあるのである。
ロシアへかえってから一九一七年の革命まで、ゴーリキイは「幼年時代」、「人々の中」その他多くの自伝的回想風の作品を書いた。これらの作品においてもゴーリキイは、自分だけを中心として書かず、自分の周囲の種々さまざまの人々が、それぞれの時代、それぞれの場所で何を考え、どんな行動をしたかということを、鋭い感覚と善良さと、ありのままに人間を観察するすばらしい能力によって描いている。ゴーリキイの回想的作品が、今日の歴史のなかで、決して過去の物語ではなく、明日へ向って特殊な社会的意義をもっている理由である。
世界を震撼させた「十月」がロシアに来た。
レーニンを指導者とするこの偉大で困難きわまるプロレタリア革命の時期に、小市民出身であり、自身率直に告白している通り「怪しげなマルクシスト」であったゴーリキイは、きわめて複雑な経験をした。彼は永い革命活動の閲歴と正当な社会に対する理解によって、もちろんこの革命がロシア人民のための「自由への道」であろうことを見抜いた。当時彼が主宰していた『新生活』の紙上では、ボルシェヴィキの政策について正しい理解をひろめるため、またレーニンに対する逆宣伝の撃破のため、精力的な活動を惜しまなかった。人民委員会の顧問となって、ソヴェト政権のもとに行われる新文化建設のために、「学者の生活改善委員会委員長」となり、また『世界文学叢書』の刊行を指導した。十月革命と同時に亡命したアンドレエエフやクープリンを高給でソヴェト同盟での活動に召集しようと努力したのもゴーリキイであった。
レーニンが、大衆の不幸というものに対して妥協のない憤激を持ち、その不幸はとりさることが出来るものであり、且つ大衆自身の力によってこそ取り除かれるものであるという明白な確信の上に立っていることは、深くゴーリキイを感動せしめた。
しかしながら、ゴーリキイには当時のロシアの社会事情ではソヴェト政権が階級としてのプロレタリアートの独裁のもとに樹立されなければならないということは、政治的問題としてなかなか腑に落ちなかったらしい。彼は、インテリゲンツィアというものは無条件にいつも進歩的であるように考え違いしていた。そのために新しい社会は、無差別にインテリゲンツィアと革命的労働者との階級的混成指導部によって建設され得るのではないかという混乱した見解をもった。レーニンと意見が一致しかねたのはこの点であった。ゴーリキイは過去において、まだ労働階級の自覚が乏しかった時代、ロシアの革命の主導的な力はインテリゲンツィアであったという、社会史の一定の時期にあった現象に執着してこの見解をもったのである。
ゴーリキイの「ヴェ・イ・レーニン」はまことにゴーリキイらしい飾り気なさ、温かさをもって彼とレーニンとの意見の相異についても書いている。ゴーリキイの誠意に満ちた、ひるむことのない、だが決してロシアにおけるプロレタリア
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