、その精神力に於て最も若々しい新世界建設者の一人として自身を世界に示したことは、よろこばしくわれわれの記憶に刻まれている。一九二八年の秋、私はモスクワからヴォルガ河を下って南ロシアへ旅行した。夏ゴーリキイに会っているので、彼の生れ、そして育ったニージュニ・ノヴゴロドの街や、ヴォルガと流れ合っているオカ河の長い木橋、その時分でもまだアンペラ草鞋を履いて群れている船人足の姿、波止場近くの小さい教会が、丸い赤い屋根をそのまま魚市場に使われていて、重々しく肩幅の広いヴォルガの労働者が下手なペンキの字で「サカナ」と書いた板を打ちつけた教会の入口を出入りする光景を、如何にもソヴェト的な一つの絵画として私は見た。このニージュニの街は、今日、ゴーリキイ市と呼ばれている。そしてちょうど私の行った時最終日であった有名なニージュニの定期市――ゴーリキイが十代の時分この定期市の芝居で馬の脚をやったということのある定期市も、その一九二八年が最後で閉鎖された。ペルシャやカスピ海沿岸との通商関係は進歩して古風な酔どれだらけの定期市の必要がなくなったのである。ニージュニが、その後すぐ始まった第一次五ヵ年計画によってソヴェト第一の自動車製作所を持つようになったことを知った時、私は、ゴーリキイがどんなに今昔の感に打たれたであろうかと思った。
ピリニャークのような作家は、日本へ来て芸者を見て、日本の社会における芸者というもののおかれているさまざまの経済的・社会的桎梏を一つも洞察しなかった。芸者というものを、全婦人があこがれている文化の美しい化身であるかのように書いた。こういう婦人の観かたと、ゴーリキイが、私に日本の婦人は出版の自由をもっているかと聞いたそういう具体的な、そして健康な着眼との相違が当時も深く心に刻まれたのであった。その後ある必要からゴーリキイの自伝的な作品を読み、ゴーリキイが婦人というものに対して抱いている態度をトルストイやチェホフのそれとくらべて独特な社会的価値を含んでいることを感じている。度々述べられている通り、ゴーリキイの幼年・少年・青年時代は恐ろしい汚辱との闘争に過ぎた。ゴーリキイの母親ワルワーラは、堂々とした美人であったらしい。夫の死後小さいゴーリキイと祖父の家に暮すようになってからは、どちらかというと自分の感情の流れに流されて暮し、ゴーリキイとは離れて生活を営む時の方が多かったらしい。若くて悲惨なその最期を終るまでには、とるところもない性質の男と夫婦になり、ゴーリキイはその継父に堪えられないような侮蔑も受けた。「幼年時代」の中にこの母の、美しくて強いがまとまりのなかった一生の印象が如実に描かれている。野蛮と暗黒と慾心の闘争との煮えたぎっているような祖父の家の生活の中で自分をたいして構ってくれなかった母、子供である自分を忘れたように男と家を出てゆく母、そういう母をゴーリキイは描いているのだが、その筆致の清潔さ、怨恨のなさ、毒のなさというものは心ある読者を驚かせずにはいないと思う。ゴーリキイは、ある境遇におかれた不幸な一人の女として自分の母をも描いているのであって、決して子から見た母、子に対して負うべき責任を持っているものとしての母、しかもその責任を充分自覚もしなければ果たしもしないで、生活の荒々しい奔流に巻きこまれて行った母に対して、払われない勘定書をさしつける息子からとしては書いていない。チェホフが、ゴーリキイの最大価値としてほめた「あるがままに人間を見る力」がこの場合にも母親の女としての現実を理解させたのだと思う。しかし、ただそれだけであろうか。私は一人の女として、何か他の要素がそこにあることを感じる。若し、トルストイがワルワーラのような母を持っていて、「幼年時代」を書いたとしたらばどうであろう。「アンナ・カレーニナ」の中で大きい役割を課せられている幼いセリョージャを、作中で成長させて死んだ母アンナの生涯を回想させたとしたら、作者トルストイはどう描いたであろうか。トルストイはきっと、母の人生に対する態度によって影響された自身の心理について多くを語っただろうと思われる。トルストイの世界観の中では、母と子の関係が人間生活に於ける宗教的な道徳的償いという意味をこめて、歴史的には封建的家長制度的な固い絆でくくりつけられている。このことは「アンナ・カレーニナ」にも現れているし、「戦争と平和」の中に、アンドレー老公爵と息子アンドレー、公女マリアとの関係等にもきびしく描かれている。ゴーリキイが「幼年時代」で母を書いている書きぶりは、五つで、もうあんまり母にかまわれなくなっている子供が、その母としてもその子としても避け難い力で、騒がしい無知な下層民の群の中に押しやられている姿として描いている。長い「家庭生活、家庭教育」で囲われたことのない、歩き出す
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング