ーノフにとっては、これまでになく明らかな輪廓をもって自分に対立する大衆の姿を、ゴーリキイが描き出したことによって「母」を憎んだのであった。この作品によってゴーリキイが起訴された。そのことをレーニンに話したら「始めは眉をひそめたが、すぐに頭をふって、目を閉じて、いかにも特別意味あり気な笑い声をあげた。その笑い声が隣の部屋にいた労働者達をよびよせた」とゴーリキイは後年書いている。
 更にこの展覧会で私の目をひいたことは、ゴーリキイの幼年時代の写真というものが一枚もないことであった。五つの時の可愛いまき毛のレーニンの写真は、今日ソヴェト同盟の到る所の幼稚園にかかっている。だが、ゴーリキイの子供の時の写真は一枚もない。ゴーリキイは指物師であった父親に五歳の時死別れた。それから後、母と共に引き取られた祖父の家でどんなに非人間的な生活を送ったかということは「幼年時代」に残るところなく描かれている。引続いて「人々の中」、「主人」、「私の大学」等に描かれている二十歳前後までの若いゴーリキイの生活環境の中で――ヴォルガ通いの蒸汽船の皿洗い小僧、製図見習小僧、波止場人足、そして一種の浮浪者であったゴーリキイに写真を撮ってやろうという程彼を愛する者はおそらく一人もなかったであろう。彼の光りの根源のような影響をもっていた祖母は、その時分もう零落して若い時分のような乞食の生活をやっていた。写真という文化の一つの形も流れ込んでいない社会層の中に生長したゴーリキイを強く感じたのであった。
 これらの展覧会その他に刺戟を受けたばかりでなく、ゴーリキイにだけは会いたい心持がした。尊敬すべき作家、そしてその作品を愛読している作家としてはロマン・ローランがある。けれどもこの人とゴーリキイとの間には本能的に区別が感じられた。ロマン・ローランは、どこか、会う人間を窮屈にさせるところが直感される。よい意味にでも、或る窮屈さを予想される。けれどもゴーリキイは、人を自然にくつろがせそして真実にさせる力を天性そなえているように思われ、一九二八年の初夏レーニングラードで同じヨーロッパ・ホテルに泊り合わせた時、私は一度このたのもしげな芸術の先輩の風貌に接したいと思った。
 晴れた穏やかな朝であった。案内された室は空で、大きな窓から朝日がさし込んでいる。テーブルがあって、上に冷えたトーストが一片皿にのって置かれている。誰か私より前に訪ねて来た者と話しながら食べた残りであろうか。ゴーリキイのように全大衆から歓迎をされている客の前からも、一片の白パンのトーストの残りをそこに残していることは如何にもその頃の生活の気分を現している。すぐ隣りの部屋に通じるドアが開いてゴーリキイが息子と連れだって出て来た。実に背が高い。広い肩幅である。薄ねずみの柔かいシャツを着て同じような色の上衣を軽く着ている。彼は大きいさっぱりと温い手で私の手をとり、そこの椅子にかけさせた。写真で馴じみの深い髯、灰色がかって大変に集中的な表情をもった眼、額の二本の横皺、それらは少し、しわがれたような、しかし充分抑揚のある深い声と共に今私の前にある。私はゴーリキイの総体を、日向でかすかに香ばしい匂いを放っている年老いた樅の木のようだと感じた。
 私たちは少しずつソヴェト文壇の話や、日本の文学のこと、ピリニャークの書いた日本印象記についての不満足な感想等を下手なロシア語で話した。ゴーリキイは真面目な注意を傾けて云うことを聞き、フム、フムといい、短く分りやすい云い廻しで自分の意見を示したりした。日本の話のついでに、ゴーリキイは、日本の婦人が出版権を持っているかということを聞いた。私は持っていると答え、何故それを訊いたかと聞き返したら、ゴーリキイは、ムソリーニはイタリーの婦人に出版の自由を与えていない。若し女の人が本を出したければ父親なり夫なり、法律上の保護者の許可がなければならないことになっていると話した。そして「彼女らは、そんな生活をしている」と、三言で結んだ。話しているとそういう短い、全く民衆的な言葉をゴーリキイが非常にたくみに、表情的に使うのに驚ろかされた。例えば、ピリニャークをどう思うかと私がたずねた時、ゴーリキイは一寸肩をそびやかすようにしてたった二言、「ふうむ。あれか。」という意味のことを云った。その二言三言が無限の含蓄をもって対象を射通しているように感じられ、私はロシア語の表現力と、それを非常に生粋に生かして使うゴーリキイの、作家としての特質を今日も鮮やかに印象されている。私がゴーリキイと会ったのはその時一ぺんであった。ゴーリキイは間もなくイタリーへ戻り、一九三二年に再びソヴェトへ帰った時には彼は全くロシアで生涯を終る決心をもって帰り、世界的に祝われた文学生活四十年の祝祭を機会にゴーリキイは六十四歳の老齢にも拘らず
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