と一しょにもう往来の子であった民衆のものの感じ方の一つが、この母と子のいきさつを描くゴーリキイの、温かくはあるが平静で、抵抗力の強い態度を引き出していると思われる。そのような言葉としてゴーリキイはどこにも云っているのではないが、彼が、社会の現実として、貧と無知とに圧せられている大衆の間では、小市民風な感情の上で美しいもの、尊いものとして描かれている家庭だの、母と子の関係だのも破壊されて、その粉々の破片が心を痛ましめる形で散在することを余儀なくされている事情を見ぬいていることがうかがわれるのである。
 ゴーリキイは子供の時分からその穢れた環境の中で、手当りばったりな乱れた男女関係を目撃して育たなければならなかったのであるが、それによって彼の性的生活に対する明るさ、健康さ、肉体的な一時的結合以上のものを求める欲望はゆがめられるどころか却って強いものとされていることが分る。この面においても、彼が少年時代から自分の置かれた周囲と自身との関係をはっきり見極めようとする気質を持っていたことを示している。だが、彼の全生涯に消すことの出来ない輝きの一点として保たれていためずらしい「智慧のあるおばあさん」例え乞食をしようとも人生の値打ちを見損いはしなかった祖母の影響を無視することは不可能である。この祖母は、八つか九つでボロ拾いをしているゴーリキイに、或る晩持ち前の魅するような話しぶりで云った。
「お前にはまだ分らないがな、結婚というものがどういうものか、婚礼というのがどんなことか。ただこれは恐ろしい不幸だよ、娘っ子が婚礼をしないで子供を生むのは。お前、ようくこれを覚えておきな。そして、大きくなってもこんなことで娘っ子をひどい目にあわせるじゃないよ。お前は女子《おなご》を不憫がって暮しな。心から可愛がっておやり。なぐさみにするでなしに。こりゃ、お前に好いことを云ってやっているんだよ。」
 これは祖母が、ゴーリキイの父が大胆ないい若者であって、どんな風に率直にワルワーラを嫁に求めたかということを孫に話して聞かせたついでの誡めであった。祖母の言葉はいつもその誠実さと、人生に対する智慧でゴーリキイの心に沁み透るのであった。このような命にみちた言葉がゴーリキイの荒い少年・青年時代を通じてどんな作用をも営まなかったと云えるであろうか。
 靴屋の見習小僧にやられたゴーリキイが、火傷をして祖父の家に帰された。その時、九つばかりであった彼は、同じ建物の中に住んでいるリュドミラという年上の跛足の女の子と大仲よしになった。二人は湯殿の中へかくれて本を読み合った。リュドミラの母親が毛皮商のところへ働きにゆき、弟が瓦工場へ出かけてしまうと小さいゴーリキイはリュドミラの家へ出かけた。そして「二人は茶をのんでその後で口やかましいリュドミラの母に気づかれないようにサモワルを水で冷しておいた。」そういう時、十四のリュドミラはませた口調で云うのであった。
「私たちはまるで夫婦みたいに暮しているわね。ただ別っこに寝るだけで。それどころかあたし達の方がずっとよく暮してるわ。――何処の旦那さんも奥さんの手伝いなんかしないんだもの。」
「智慧のあるおばあさん」が時々レース編をしながら仲間に加わった。そして楽しそうに云った。
「男の子と女の子と仲よくするのは大変結構さ。だがね、いたずらをしちゃいけないよ。」
「そして、彼女はいたずら[#「いたずら」に傍点]とは何のことであるかを最も平易な言葉で二人に説明した。私どもは美しく、感動深く話して貰ったので、花は咲かないうちにつみ取るものでない。匂いも実も得られなくなるということがよく分った。」後年ゴーリキイは「人々の中」で更に続けて云っている。「いたずら[#「いたずら」に傍点]をしようとは思わなかった。けれどそれがために私とリュドミラとは普通誰れもが口にしないようなことについて語り合うのを妨げられたのでもなかった。語り合ったのは無論その必要があったからである。つまり、露骨な両性の関係をあまりにも頻繁に、あまりにもしつこく見せつけられて憤慨に堪えなかったからである。」
 女をも不幸の荷い手として見ざるを得ないゴーリキイの育ったこういう環境と、息子が年頃になると小間使の小綺麗なのをあてがい、社交界の身分高い貴夫人と醜行を結ぶことを出世の緒として奨励したロシアの貴族階級の腐敗の中に育ち、それと闘ったトルストイの女性の見方との間にわれわれが大きい相違を認めるのは当然の結果である。トルストイが人類を高めようとする男のよい意志に対する敵、肉体の敵として婦人を観たことは、ゴーリキイを驚かしたことであった。ゴーリキイが新進作家としてトルストイに会うようになった時、トルストイは散歩の道すがらなどでゴーリキイに話したのは農民の生活と女のことであった。トルストイは最も
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