乱暴な云い方で女のことを話した。ゴーリキイは初めトルストイが、下層出身である自分を試してそんな話をするのだと思って心持を悪くしたといっている位である。トルストイが肉体的に大きい精力をもっていたことはよく知られている。ゴーリキイにしろ、肉体的に云えば決してトルストイに劣るとは云えなかったかも知れない。青年・壮年のトルストイが、自分の肉体的な力に罪悪を感じたり、自身の官能の鋭さを荷厄介にしたりして、それを刺戟する女性を呪い憎んでいるに対して、同じ年頃のゴーリキイは、何と素朴な初恋を経験していたことであろう。この初恋は、ゴーリキイが「初恋について」の中で書いている通り、「その悪い終末にも拘らず、よい歴史として終りをつげた。」そのオリガとの訣別は、ゴーリキイとの性格のちがい人生に対する態度のちがいから起ったのであるが、自身の人間及び作家としての発展の自覚と、それに不適合な女との関係をゴーリキイはゲーテなどとも著しく違う態度で見ている。ゲーテは女との結合、離別に際していつも自身の天才に対する、或る点では坊ちゃんらしい自尊自衛から自由になり得ていないのであるが、ゴーリキイは自分の才能と女の天分との比較裁量などということはしていない。一人の女としてその女なりの生活を認め、同時に自身の行くべき道も優しい心でしかも確りと認めている。オリガともそういう風な別れ方なのであった。
 十八九歳でパン焼釜の前に縛りつけられていた時分、彼は仲間に淫売窟へ誘われた。彼はそこへついて行き、だが自分は放蕩をせず、不幸な娘たち[#「不幸な娘たち」に傍点]といろいろ話し、そういう場所へ来る大学生が、彼等の所謂教養にもかかわらず何故こんな性質のいい娘がこういう商売をしなければならないかということを一向不思議がらずに、平然とその娘を買うということを、若いゴーリキイは非常に驚いている。
 晩年のトルストイとトルストイ夫人との間に生じた悲劇的な離反は有名である。ゴーリキイがトルストイの所へ出入りするようになった時にはもうこの徴候が充分きざしていた。「女に対して彼は、私の見るところ妥協し難い敵意を持ち、それを罰することが好きである。」という印象をゴーリキイは受けた。トルストイの当時の心持の中には、夫人との軋轢が一つの鋭いとげとなっていたかも知れない。しかしゴーリキイは非常に公平に一人の人間としてトルストイ夫人を見ている。トルストイ夫人が所謂トルストイアンのいかがわしい連中にとり囲まれている夫に向って「私はこういうトルストイアンがたまりません。こういうトルストイアンを私は心からいとわしく思っています。」と、現にそのトルストイアン連中が聞いている前ではっきりと云うトルストイ夫人を、ゴーリキイは夫のトルストイが理解し得なかった現実性で理解し、夫人の意見を正当と認めているのである。ゴーリキイは六十八年の生涯に多くの作品を生んだが、トルストイやツルゲーネフ、チェホフ等のように、ある一人、或は二人の女を中心に、男女のいきさつだけを中心にした作品というものを書いていない。これは大衆の生活の中から生れ立って来たこの作家のいかにも勤労者らしい特徴の一つである。
 チェホフは医者であった。女が男に与えるさまざまの価値ある影響をも認めたが、彼は主としてそれを感性的な面に於て見た。知性の上でチェホフは女の「可愛い愚かさ」というものを一つのあきらめとして、何れかといえば固定的に認めていた。ツルゲーネフが西欧主義者として、いささか皮相的なフェミニストとして女性を文学化し、チェホフにその婦人たちがこしらえものであることを批判されたが、ゴーリキイは以上の人々の誰ともちがい、勤労者らしい淡泊さと同時に現実を恐れない突き込みをもって大衆の半数を占めるところの女のさまざまの姿を描いている。ゴーリキイは極めて健康な本能によって人間としての女が発展進歩すること、社会的な土台の拡大につれて女の世界観も高まり得ること、そのために援助する義務が先進的な男女にあることをその芸術の中で示した。その一つは「母」である。ゴーリキイの最近の写真に、国内戦時代のパルチザンの活動をした婦人たちと話しているところを撮ったのがある。ゴーリキイは膝の上に片肘を突き、唇の両わきを人さし指と親ゆびとで押えながら熱心に耳を傾けている。ゴーリキイはロシア革命史の編纂委員長であった。また、工場史の編纂責任者であった。人類の希望を集めて新しく建設されつつある社会の中で、ゴーリキイは婦人が新しい発展的タイプとして立ち現れて来ていることを充分理解したのである。ゴーリキイがかつて最も文化のおくれたトルクメンの婦人代表に向って述べたよろこびと歓迎の言葉は、決して遠い沙漠に住んでいるトルクメンの婦人たちだけを鼓舞するものではないのである。
[#地付き]〔一九三六年
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