マリア・バシュキルツェフの日記
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)別荘《ヴィラ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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暑い日に、愛らしく溌剌とした若い娘たちが樹かげにかたまって立って、しきりに何か飲みたがっている。ああ、これはどうかしらんといって、樹かげの見捨てられた古屋台の中から、すっかり気がぬけて、腐っている色付ミカン水の瓶をひっぱり出して来て、それを分けて飲もうとしているとき、もし、傍に人がいて、五六間先の岩の間に本当の清水がこんこんと湧き出しているのを知っているとしたら、その人は娘さんたちに向って何というだろう。一寸一寸、そんなくさったまがいものはおやめなさいよ。そこに清水があるのよ。そこへ口をつけてたっぷり喉のかわきをおなおしなさい。そういわずにはいられないにきまっている。
私はこの間「恋人の日記」という映画を見て、全くそういう心持から、声が出そうになった。ああ皆さん、これは、随分こしらえものだし、まがいものです。本当の「マリア・バシュキルツェフの日記」はここにあります。これこそ、かえりみるべき価値をもっている。若い女性の生活を何かの意味で教え豊かにするものを含んでいる。容赦のない現実を生きた痛切な一少女の吐露があります。
ヘルマン・コステルリッツという映画監督も、脚色者ヨアキムソンも、「恋人の日記」では、弁解の余地のない芸術家としての低さを示している。彼らは、「マリア・バシュキルツェフの日記」に目をとおしながら、一人の女としてのマリアは全然理解しなかった。驚くべき芸術的才能をもって僅か二十四歳で死んだロシアの貴族の娘マリアの、独特な色の焔のようであった性格の美しさ、面白さ、苦悩の真実さ、矛盾の率直さが、まるでつかまれていない。つまり人及び芸術家が魅力を感じるべき点がことごとくゆがめられて通俗なロマンスとなっているのである。
例えばマリアが病気になっている。しかも大変わるくなっている。それを知っているのは、彼女を魂から愛している老家庭医のワリツキイ博士だけであるように映画では説明されていて、そこで観客の眼に涙を誘う道具だてがされているのだが、実際の生活の中でマリアは、自分の病気がわるくなるより四年も前に、この「天使のような」ワリツキイ、生きていたら、どんなにか彼女の最後の力となったであろうワリツキイに死なれている。マリアの肺が両方とも腐りはじめていることを知っていたのは、本当はマリア自身だけなのであった。それから、彼女の身のまわりを世話していたロザリイという召使と。ついにマリアが立てなくなるまで、二人のほかには母さえもマリアがそんな重い病にとりつかれていたとは知らなかった。マリアは、絵の仕事がしたい。その為に、病気を知れば母がスケッチのための外出さえやめさせるであろう。すっかり病人扱いにし、涙でぬらし甘やかすだろう。それではマリアとして、どうせ短かい自分の命の価値を、自分が満足するようにつかうことさえできなくなる。それで病をかくした。その上、花のような容貌をしながら二十歳のマリアはすでに結核性の聾《つんぼ》になりはじめていた。その恐ろしい事実を彼女はどれ程の緊張でひとからかくしたろう。いくたびか巴里のあっちこっちの医者へその治療のために通ったかもしれないのである。
「恋人の日記」では、この人生でマリアの最も厭がった拵えもの[#「拵えもの」に傍点]の筋が椿姫まがいに運ばれている。そしてついにマリアは、実は彼女の絵の教師が貰ったサロンの金牌を、彼女へおくられたものとして持って来るモウパッサンの愛の偽りに飾られて死ぬのだが、決して、マリアが自分の最後に面した現実はこんな水っぽい、甘いものではなかった。彼女の傑作「出あい」はサロンで二等になったにもかかわらず、若い娘の作品にしては立派すぎる、非常によい[#「非常によい」に傍点]ことが却ってさまざまな中傷を産んで、当然として周囲からも期待されていた金牌は、第三位の永年サロンに出品している芸術的には下らない画家に与えられたのであった。マリアは、こういう苦痛に顔を向けつつ、しかも勇気を失わずに死ぬ十日前まで、一方では彼女の寿命をちぢめつつ他の一方では刻々とその削られてゆく寿命に意味を与えている絵の仕事をつづけて生涯を終ったのであった。
私は、ここで要約しながらもほんものの、「マリア・バシュキルツェフの日記」を紹介したいと思う。
マリア・バシュキルツェフは一八六〇年の秋、南ロシアのポルトヴァで生れた。ロシア風にいえば、彼女はマリア・コンスタンチノヴァ・バシュキルツェヴァと呼ぶのが本当である。ところが、彼女が八つの年、ポルトヴァの貴族である父親と、やはり古い貴族の娘である母との間に不和が生じて、別居することになった。母はマリア、叔母、ジナという従姉、祖父、「天使のように比類ない」家庭医ルシアン・ワリツキイ、侍女などを連れ、ロシアを去って、フランスに暮すようになった。マリアは少女時代を南フランスのニースで育った。当時ロシアの貴族はフランス語を社交語として暮していたばかりでなく、マリアのこういう特別な境遇が一層フランス語を彼女の言葉にした。それで、自分の名もフランス流に、父称を略して呼ぶようになったのであった。
マリアは、はじめ声楽家になって、自分がこの世に生れて来たということの真価を発揮しようと思い立った。イタリーでその修業をはじめた。けれども、専門家としての練習に声が堪えないことがわかって(十六歳の時)、この希望は思い切らなければならなかった。もうこの頃から、徐々に気付かれず彼女の命を蝕む病の作業がはじまっていたのであったのであるが、マリアはそれを知らなかった。そして十七歳の年からジュリアンの画塾に通いはじめ、最後の七年間、彼女の豊富な情熱の唯一の表現、対象として画家としての刻苦精励がつづけられたのであった。彼女の最後を名誉あらしめた「出あい」は、今日世界名画集からはとりのぞくことのできないリアリスティックな傑作の一つとなっているのであるが、マリアが数点の絵とともに後世にのこした独特な日記は、マリアの死後一年に、小説家アンドレ・チェリエによって整理出版された。それ以来、英米訳が出版され日本訳は既に十数年前野上豊一郎氏によって発表されている。
余り多くの才能と余り短い命とをもったマリアは非常に早熟であった。彼女は十三になったとき、もう「私は十三である。こんなに時間を無駄にしていて、これから先どうなることだろう?」と溜息をついている。自分の命に限りのあること、その限りある命の中で、自分がそのためにつくられていると感じている勝利と感動とのために、何事をか仕遂げなければならない。マリアを寸刻も落付かせないその内部の衝動によって、彼女は十三から日記をつけ始めたのである。
普通日記というと、ひとに見せないものとして考えられている。マリアはこの点で全然別な考えをもっていた。はっきり、人に読んで貰うことを期待した。彼女は十六歳の時にこう書いている。
「私は自分の将来がどうなるかは知らないが、この日記だけは世界にのこす積りである。私たちの読む書物は皆こしらえものである。筋に無理があり、性格にうそがある。けれどもこれは全生涯の写真である。ああ! こしらえものはおもしろいが、この写真は退屈だ、とあなたはいうでしょう。あなたがそんなことをいうならば、あなたはひどく物のわからない人だと思います。
私はこれまで誰も見たことのないようなものをあなたにお見せするのです。これまで出版されたすべての思い出、日記、すべての手紙は、皆世界を偽るための拵えものに過ぎません。私は世界を偽ることには少しも興味を持っていない。私には包むべき政略的の行為もなければ、隠すべき犯罪の関係もない。私が恋をしようとしまいと、泣こうと笑おうと、誰もそんなことを気にかける人はありはしない。私の一番心にかかることは出来る限り正確に私というものを表わしたい[#「出来る限り正確に私というものを表わしたい」に傍点]ことである」と。
この、できる限り正確に自分を表わしたい、という衝動こそは、マリアの短い燃えきったような全生涯を貫いて、絶えず彼女を人間、女として向上させた貴い力であり、勇気と客観的な冷静さの源泉であった。大勢の女ばかり多い貴族的で有閑的な、つまり気力の乏しい家族にとりかこまれ、一見賑やかそうで実は孤独であったマリアは、よろこびも悲しみも、すべてを日記の中に吐露し、それを正確に吐露することで、一歩一歩と進み出て行っている。すっかり体が悪くなった一八八四年の五月一日に、マリアは五ヵ月後に自分の命が終るとは知らないながらも、いちじるしく肉体の衰弱を感じてこの日記に「序」を書いた。
「あざむいたり気どったりして何になろう? ほんとうに、私はどんなにしてもこの世の中に生きていたい[#「生きていたい」に傍点]という、望みではないまでも、欲望をもっていることは明らかである。もし早死をしなかったら私は大芸術家として生きたい。しかし、もし早死をしたらば私のこの日記を発表してほしい。」「もしこの書が正確な[#「正確な」に傍点]、絶対な[#「絶対な」に傍点]、厳正な[#「厳正な」に傍点]真実でないならば、存在価値はない。私はいつもただ私の考えているだけのことをいうのみではなく、またあるいは私を滑稽に見せるかもしれず私の不利益となるかもしれぬことをかくそうと思ったことはなかった。」
若いマリアにとって日記を書く最後となったこの一八八四年の五月一日午後は、丁度彼女が男の名前で「出あい」を出品したサロンの入賞と陳列の位置とがきまる前後で、マリアは、大変わくわくしている。四月三十日にサロンの初日に出かけ、新聞の批評に気を揉み、あるいは会場で自分の絵を眺めている大勢の人々を長椅子にかけて見物しながら「それらのすべての人たちが、きちんと恰好よく靴をはいた、実に可憐な足を示しながらそこにそうして坐っている美しい少女が、その画の作者であることを決して知ろうともしないであろうと考えて、笑ったり」している。しかし何か不安が心の中にあって彼女を落付かせぬ。自分が死んだら、何にものこらなくなる。この考えが彼女を恐れさす。「生きて、大きな望みを持って、苦しんで、泣いて、もがいて、そうしてついに忘れられてしまう!」この考えは、サロンでの絵の評価がきまらない事の不安と結びついてマリアに「序」をかかせたのであった。
さてマリア・バシュキルツェフの千五百頁にわたる日記は、次の一頁から始められた。
一八七三年
一月(十二歳)――ニイス〔フランス〕プロムナアド・デ・ザングレエ。別荘《ヴィラ》アッカ・ヴィヴァ。
「叔母《タント》ソフィが小ロシアの曲をピアノで弾いているので、それが私に田舎の家を思わせる。」
マリアには、もうよその客間で娘たちを感歎からひざまずかせるような声があった。「衣裳よりほかのことでほめられるのは非常な感動をおこすものである! 私は勝利と感動のために造られている。それ故、私のできることのうちで最上のことは歌う人になることである。もし神様が、私の声を保存[#「保存」に傍点]し、強め[#「強め」に傍点]、発達[#「発達」に傍点]させて下さるならば、私は自分の望む通りの勝利が得られるだろうと思う。」
マリアは、執拗にこの希望を追って、そしたら「私は私の愛する人を自分のものにすることもできるだろう。」と、自分が貴族の娘であることの有利さまで熱心に数えている。おさない早熟なマリアは、同じニイスにいて、往来で一二度ばかり見うけたイギリスの公爵H《アッシュ》に熱中なのである。
「私は慎しい少女だから、自分の夫になる人より外の男には決して接吻しない。私は十二から十四まで位の少女には誰もいえないようなある事を誇としていい得る。それは男に接吻されたこともなければ、
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