また男に接吻したこともないという誇である。――」
 マリアは、自分を見知りもしない公爵H《アッシュ》に夢のような熱中を捧げると同時に、その愛人のG《ジェー》を観察して嫉妬もしている。どうして、彼女の周囲の腐敗した上流社交人たちは結婚に対して、それを愚弄した考えを抱くのかを、小さい鋭い頭で疑っている。「夫と妻は互に公然と愛し得るからだろうか? それは罪でないからだろうか? 禁じられていないものは価値少く見えるからだろうか。また秘密を楽しめるものの方が愉快だからだろうか! 決してそんなはずはない。私はそう思わない!」好奇心というよりは探求心、精神のこの健全さ、一徹さが早熟な貴族の娘としてのマリアのうちにあることは注目に価する一つの貴重な特徴である。そして、彼女は自分の弟のポオルの生きかたについてまじめな心痛を語っている。「彼は多くの人のような暮し方をしてはならないから。――即ち初めぶらぶらして、それから博奕を打つ人やココット(遊ぶ女)の仲間に交ったりしてはならないから。彼とても男でなければならぬから。」だが、このマリアもいかにも貴族の小娘らしく競馬馬を母にねだってそれを買って貰っている。貴族の娘に生れ、そのほかの社会のすがすがしさや活動性を知る機会をもたないマリアは、退屈で消費的な貴族生活の中でともかく何か変化を求めている。社交界へ出たがって、早く大きくなりたがっている。別荘地のニイスの社交界なんぞではなく、華々しいペテルブルグかロンドンかパリの。
「私が自由に呼吸できるのはそこである。社交界の窮屈は私にはかえって楽だから。」マリアは自分が社交界に出たいのは、「結婚する為ではない。母様と叔母が、そのなまけをふり落すのを見たい為である。」公爵Hが結婚した報知は十三のマリアの手からその新聞を「取り落されず、反対にそれは私にはりついた。」「おお私は何を読んだのでしょう! 私は何を読んだのでしょう。おおこの苦しさ。」「今日から私はあの人に関するお祈を変える。」「書けば書くほど書きたいことが殖えて来る。それでも私の感じていることを皆書くことはできない! 私は力以上の絵を仕上げようと思いついた不幸な画家のようだ。」

 マリアは十四歳になった。「どうすればみんな子供からすぐ娘になれるのだろう? 私にはわからない。私は自分にきいた。どうしてあんなのだろう? いつとなしにか、それとも一日でか? 人を発達させ、成熟させ、改善させるものは、不幸か、でなければ恋愛である。」猛烈に生きたがって世間へ出たがっているマリア。「本当にそうだ。私は自分でもこれほど熱烈に世の中に出たがる心持は短命の前兆ではあるまいかというような気がする。誰にわかるものか!」
 この年の九月にマリアは母や叔母たちおきまりの同勢でミケランジェロの四百年祭を見るためにイタリーのフロレンス市へ旅行した。趣味のある娘ならその前で讚美するのがきまりとなっているラファエルの聖母を、マリアははっきり自分は不自然だからきらいだといっているのは面白い。そんなに理解力のつよいマリアさえも貴族としての境遇は愚にした。「ロシアには下らない人間がたくさんいて共和制を欲しているということである。堪らないことである。」と考えたり、それら急進的な人々は「大学とすべての高等教育を廃止する」ものだという間違った説明をふきこまれたまま怒っている姿は哀れである。
 ロシアの一八六〇年代から八〇年代は、単にロシアにとってばかりでなく世界の人類の進歩、解放の歴史に大きい意味を与えた時代であった。ロシアでは一八六一年農奴解放が行われたが、これはドイツにおける農奴解放と同様にこれまでの農奴として地主のために賦役させられた農民が、今度は生きるために「自分の意志」で賦役制度にしたがわなければならないことになった。農民の貧困は改善されなかった。それこそ、マリアが知っていれば何よりきらいな、うそといつわりの解放であった。この重大な時期に、マリアがロシアに生活せず、パリやニイスやイタリーを親切ではあるが旧時代の世界に住んでいる女親たちにとりかこまれて、領地の農民たちからしぼりとった金を使いながら歩きまわっていなければならなかったことは、マリアの知らない生涯の大損失であった。当時ロシアの貴族の若い娘たちの中から、卓抜な努力的な新しい道を生きた婦人たちが何人か出ている。例えば十九世紀の後半、全欧州を通じてもっとも著名な女流数学者であったソーニァ・コヴァレフスカヤは、マリアより十歳の年上であった。そしてロシアの進歩的な若い娘が旧式な親たちの望まない知識と社会的自由を手に入れる特別な方法として選んだ名義だけの理想結婚をして、ドイツへ行き、この頃はハイデルベルヒ大学やベルリンで数学の勉強をしていた。
 又、彼女が「野獣」と呼ぶようにしか教えられていなかった急進的な一団のロシア人の中には、クロポトキンがその「思い出」の中に、愛惜をもって美しく描いている有名なソフィア・ペロフスカヤのような秀抜な革命的な若い女もいた。一八八〇年代というときは、又ロシアに最初のマルクス主義団体が生れ、マルクスの「資本論」が翻訳されていた。ヴェラ・ザスリッチのような歴史的な業績をもつ婦人もある。マリア自身、いかにもロシアの女らしいゆたかな生活力と天質に燃えながら、しかも同時代のロシアの歴史の精華と何の接触ももつことができず、それどころか、全く誤った見かたにおかれた彼女の境遇を私は哀れに思う。
 当時全ヨーロッパが最良の精力をつくして、より合理的な社会生活をうちたてようとしていたまじめな人間努力の影響が、マリアの生活に欠けていたことは、マリアが二十三になって、ますます絵画に精進し、芸術におけるリアリズムをとらえ得るようになって来たとき、深刻な矛盾としてあらわれて来ている。当時の芸術思潮の影響もあって自然であることの美しさを、古典的、人工的な美よりも高く評価するようになったマリアは、絵画の技法の上では驚くべきリアリストになりはじめた。ところが、画題の選択の面では彼女の少女時代からつきまとっている貴族主義、壮美の趣味がつきまといつづけた。「出あい」を描く一方で、マリアは刺客におそわれている「シーザア」やキリストを葬ったばかりの「二人のマリア」の大作を描こうと勢いこんでいるのである。

 十五歳で、辛辣に小癪にも人類への軽蔑を表現しているマリア。同時に「人は何故誇張なしに話ができないのだろうか」と苦しんでいる正直なマリア。十六の正月はロオマで迎えられた。この四ヵ月にわたるロオマとネエプルの旅の間で、マリアの第二の愛情の対象となった伯爵アントネリオの息子ピエトロと相識った。ピエトロはマリアに魅せられ、マリアもつよく彼にひきつけられて、この一八七六年の日記は、寸刻もじっとしていない若々しい激情の波瀾と、まじめさとコケトリイとの鮮やかな明暗が一頁ごとに動いている。ロオマの謝肉祭《カアナバル》のときの色彩づよい記録。こまやかに書かれているピエトロとの対話。マリアの若い娘らしい嬌態は、十六の少女のやみがたい愛への憧れと同時に目かくしをされ切ることのできない性格的なつよさ、冷静さの錯綜から生じている。ピエトロとの結婚がロオマの社交界で噂されたが、マリアは拒絶した。
「私は実際彼を愛したか? 否《ノン》。いやもっと正しくいえば、私は彼の私に対する愛を愛したのである。けれども私は愛において不実であることができないので、自分でも彼を愛してるように感じていた。」
 この夏、マリアは八年ぶりでロシアへかえり、ポルトヴァの父の家に冬まで滞在した。
「これまで愚かしい生活をして来て自分の好きなまねばかりしていたが、絶えず物足りない心持で、決して幸福でない」父。マリアの養育のためには一スウの金も出さないのに、成長した美しい娘の上に威力をしめそうとする父。まだ美人といえる若さだのに、不幸な結婚生活のために神経質になってしばしば発作をおこす母《ママン》。ロシアからパリへかえって来たと思うと、もうニイスへ行くために「三十六の手荷物のために死物狂いになるまで私を働かせる」母《ママン》。「おお! 私は抑えつけられるようだ。私は息がつまりそうだ。私は逃げ出さねばならぬ。私は堪えられない[#「私は堪えられない」に傍点]※[#感嘆符二つ、1−8−75] 私はこんな生活をする為に生れたのではない。私は堪えられない!」「仕事をする機会が私を避けている!」「私は学問をしたくてたまらない。私には導いてくれる人が一人もない。」
 内心の熱い輾転反側は彼女が十七歳の秋、ジュリアンのアトリエに通いはじめて、やっと一つの方向を見出したように見える。
「朝の八時から十二時まで、それから一時から五時まで絵を描いていると、日が早くたってしまう。しかし往復に一時間半かかる。私はこれまで失った年月のことを考えると腹立たしくなる。十三の時にこんな風にして始めたらどんなによかったろう! 四年損をした!」「アトリエではあらゆる差別というものが無くなってしまう。名前もなくなる。姓もなくなる。そうして母の娘でもなく、ただ自分自身となる。自分の前に芸術をもっている一個人となる。そうして芸術以外には何ものもなくなる。実に幸福で、自由、得意である。ついに私は久しく望んでいる状態になった。私はこれを実現することができないので、どんなに長い間渇望していたかしれなかった。」
 マリアの前には、やっと彼女が一人前の人間となってゆく道がひらけはじめた。自分の失った時間をとり返す決心をして、彼女は一日八時間の勉強の上に夜の部にまで出席した。画学生マリアの服装は質素になった。石膏模型、骨の見本、マリアは僅かの間にジュリアンのアトリエで一番技術をもったブレスロオという娘を唯一の競争相手とするところまで突進した。マリアの異常な才能は輝き出した。それにしても、マリアのいそぎよう! 彼女の日記のどの頁にも、芸術の成功についての不安、鼓舞、努力への決心がばら撒かれていないところはない。マリアは昼食さえ、アトリエへ運ばしてたべることにした。「私は自分に四年の月日を与えていた。七ヵ月は既に過ぎ去った。」マリアは「社交も散歩も馬車も、何ものも打ち捨てた」十八歳の七月三日の記事に「M……別れをいいに来た。」云々。そして雨の中を展覧会へ行くまで二人の間に交された話ぶりを記しているのであるが、このMというのが、今日の映画の「恋人の日記」のパン種となったモウパッサンの頭字だろうか。マリアは「Mの愛の火に心を暖められ」ながらも、落付いて、自分がMと「結婚しようというような考は一つもない」こと、「二年前まで私は愛と思い込んでいた」ものだが、愛ではないということを自分にはっきり認めているのである。そして、この尨大な日記の中にMという字はもう二度と出て来ていないのである。
 十九歳のマリアの心持が芸術への熱中を通じて、ある意味で急速に社会化されて行く過程は実に深い教訓をもっている。マリアは本気で当時の社会における女の位置を怒っている。当時のフランスでは身分のある若い女はアトリエさえ独りでは行けなかった。ルウヴル美術館へ絵を研究にゆくにさえ、「いつも人に附添われて、馬車を待ち、家族その他を待たねばならない。」「なぜ婦人画家が少ないかという理由の一つもこれである。おお、残酷な習俗よ!」マリアは決然として書いている。「私は自分を束縛するあらゆる不利益を排して何物かになった一人の女のあることを、社会に知らせる一例を示したいと思っている。」
 激しく出るようになった咳と聾になる恐怖との間で、二十歳のマリアはサロンへはじめてコンスタンシ・ルスという名で出品をし、合格した。この時のサロンにバスチャン・ルパアジュの有名な「ジャンヌ・ダルク」が出品され、マリアに甚大な感動を与えた。
 サロンに入選しても、マリアはますます自分の画の不満を自覚してきびしく自分を鞭撻しているのに、家族の者がマリアの体を気づかう姑息な女々しい心遣いはマリアを立腹させるばかりである。マリアの耳では目醒時計の刻む音がきこえなくなった。過去
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