四年の間、喉頭炎と思わされて来たものが肺であることも分った。医者は転地をすすめる。だが「家族と一緒に、彼らのこまごましたわずらわしさを背負って旅行したところで愉快ではない。」マリアはアトリエの隙間風を防ぐために修道僧のようなずきんつきの大外套をこしらえさせた。それを着て、やはり猛烈に仕事をしつづける。「私は近頃自分のことを話したり書いたりする時に泣き出さないではいられなくなった。」「人生は結局外観はどうあろうとも哀れである。」「それでも私は自分を投げ出すことができない! して見ると生は一つの力でなければならない。何物かでなければならぬ。私たちには永久というものがないから、人生は何物でもないという人がある。ああ! 愚かなることだ! 人生は私たち自らである。それは私たちのものである。それは私たちの所有するすべてである。それにどうして人生が何ものでもないということができるか! もし人生が何物でもないならば、何物[#「何物」に傍点]かであるものを見せて下だい。」
一八八一年のサロンにもマリアは出品したが、これは苦しい年であった。画家としてのマリアの境地は次の年へかけて非常に深まった。芸術が創られるとき、それが自然の単なる模写に過ぎない写実と、現実の瞬間を内容にまで迫って捕えようとするリアリズムの間に、どれ程の大きい相異があるか。そして、本当の芸術は見える物象のただのひきうつしではないということを彼女は本ものの芸術家らしい見識で発見している。耳はますます遠くなった。肺の両方がわるい。しかも、バラ色の顔で、外見は何でもなさそうに日夜をわかたずアトリエ暮しをしている二十三歳のマリア。
翌年のサロンに「出あい」が大好評で入選した。粗末な板壁のある街角で黄色い髪をした小学生たちがふと出合って、互いにはにかんでいる絵は、題材の自然さと、描写の活々としたたしかさとで誰の目にも賞牌候補と思われたが、作者のマリアが、金にこまらない貴族の美しい娘であることが、意外の誹謗の原因となった。「ジャンヌ・ダルク」以来彼女が傾倒し師事していた当時の大家ルパアジュが加筆したような噂がつたえられた。そのルパアジュは三十六歳で、そのときはもう病床で生と死との境にあった。マリアは、この画をかくために、街頭スケッチまでして努力したのであった。ここで、私たちは一層マリアを哀れに思わずにはいられない。こんなに画業に身をうちこみ、熱心に努力したマリアがどうして、無気力で趣味も低いナポレオン三世時代の古いサロンばかりをたよりにして、苦しめられていたのだろうか。一八六三年にマネは有名な「草上の昼食」をサロンに出して落選し、別に「落選作品のサロン」を開いて、ヨーロッパの絵画の世界に全く新しい生命をふきこんだ。今日は知らぬ人のないアメリカの画家ジェームズ・ホイスラーもこの落選作品のサロンに出品した。マネ、モネ、ピサロ、ルノアル、ドガ、シスレー、ギョーマン、バジールなどが集って、印象派の運動がおこっていた。マリアは、最後に自分のいのちを注いだ芸術の世界においてさえ、いわゆる貴族とサロンというくされ縁を切れなかったのだろうか。マリア自身の内部にも、ある時は熱くある時は冷たい強烈な生と死との格闘がはじまっている。「要するに、私はまだ、死ぬのにも、陶酔を見出せる年齢にある。」「私にとっては、極端まで押しすすめられた完全な感覚は、苦痛の感じでさえ、すでに一つの享楽である。」
マリアの肉体の疲労はひどくなって、もう外出も不可能になった。「しかし、気の毒なバスチャン・ルパアジュは外出する。彼はここまで運ばれて来て、クッションの上に両足をのばして安楽椅子にかける。私は、その直ぐそばのもう一つの安楽椅子にかける。そうして六時までもそうしている。」マリアは全部白ではあるが、布地とつやの様々の変化を美しくあしらった部屋着を着ている。「バスチャン・ルパアジュの目はそれを見てうれしそうに見張った。――おお、私に描くことができたら! 彼はいう。そうして私も! もうだめ、今年の画は!」
十月二十日
「天気がすぐれてよいのにかかわらず、バスチャン・ルパアジュは森へ行かないでここへ来る。彼はほとんどもう歩くことができない。彼の弟は彼を両腕の下から支えて、ほとんどかつぐようにしてつれて来る。……この二日間、私の床は客間《サロン》に移された。でも部屋が非常にひろくて、衝立《ついたて》や大椅子やピアノで仕切られてあるから、外からは見えない。私には階段をのぼるのが困難である。」
マリア・バシュキルツェフの日記はここで終っている。マリアはこの日から十一日後、一八八四年十月三十一日に二十四歳の生涯を終った。バスチャン・ルパアジュはそれから四十日経った十二月十日に死んだ。[#地付き]〔一九三七年七月。一九四六年六月補〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「新女苑」
1937(昭和12)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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