」
若いマリアにとって日記を書く最後となったこの一八八四年の五月一日午後は、丁度彼女が男の名前で「出あい」を出品したサロンの入賞と陳列の位置とがきまる前後で、マリアは、大変わくわくしている。四月三十日にサロンの初日に出かけ、新聞の批評に気を揉み、あるいは会場で自分の絵を眺めている大勢の人々を長椅子にかけて見物しながら「それらのすべての人たちが、きちんと恰好よく靴をはいた、実に可憐な足を示しながらそこにそうして坐っている美しい少女が、その画の作者であることを決して知ろうともしないであろうと考えて、笑ったり」している。しかし何か不安が心の中にあって彼女を落付かせぬ。自分が死んだら、何にものこらなくなる。この考えが彼女を恐れさす。「生きて、大きな望みを持って、苦しんで、泣いて、もがいて、そうしてついに忘れられてしまう!」この考えは、サロンでの絵の評価がきまらない事の不安と結びついてマリアに「序」をかかせたのであった。
さてマリア・バシュキルツェフの千五百頁にわたる日記は、次の一頁から始められた。
一八七三年
一月(十二歳)――ニイス〔フランス〕プロムナアド・デ・ザングレエ。別荘《ヴィラ》アッカ・ヴィヴァ。
「叔母《タント》ソフィが小ロシアの曲をピアノで弾いているので、それが私に田舎の家を思わせる。」
マリアには、もうよその客間で娘たちを感歎からひざまずかせるような声があった。「衣裳よりほかのことでほめられるのは非常な感動をおこすものである! 私は勝利と感動のために造られている。それ故、私のできることのうちで最上のことは歌う人になることである。もし神様が、私の声を保存[#「保存」に傍点]し、強め[#「強め」に傍点]、発達[#「発達」に傍点]させて下さるならば、私は自分の望む通りの勝利が得られるだろうと思う。」
マリアは、執拗にこの希望を追って、そしたら「私は私の愛する人を自分のものにすることもできるだろう。」と、自分が貴族の娘であることの有利さまで熱心に数えている。おさない早熟なマリアは、同じニイスにいて、往来で一二度ばかり見うけたイギリスの公爵H《アッシュ》に熱中なのである。
「私は慎しい少女だから、自分の夫になる人より外の男には決して接吻しない。私は十二から十四まで位の少女には誰もいえないようなある事を誇としていい得る。それは男に接吻されたこともなければ、また男に接吻したこともないという誇である。――」
マリアは、自分を見知りもしない公爵H《アッシュ》に夢のような熱中を捧げると同時に、その愛人のG《ジェー》を観察して嫉妬もしている。どうして、彼女の周囲の腐敗した上流社交人たちは結婚に対して、それを愚弄した考えを抱くのかを、小さい鋭い頭で疑っている。「夫と妻は互に公然と愛し得るからだろうか? それは罪でないからだろうか? 禁じられていないものは価値少く見えるからだろうか。また秘密を楽しめるものの方が愉快だからだろうか! 決してそんなはずはない。私はそう思わない!」好奇心というよりは探求心、精神のこの健全さ、一徹さが早熟な貴族の娘としてのマリアのうちにあることは注目に価する一つの貴重な特徴である。そして、彼女は自分の弟のポオルの生きかたについてまじめな心痛を語っている。「彼は多くの人のような暮し方をしてはならないから。――即ち初めぶらぶらして、それから博奕を打つ人やココット(遊ぶ女)の仲間に交ったりしてはならないから。彼とても男でなければならぬから。」だが、このマリアもいかにも貴族の小娘らしく競馬馬を母にねだってそれを買って貰っている。貴族の娘に生れ、そのほかの社会のすがすがしさや活動性を知る機会をもたないマリアは、退屈で消費的な貴族生活の中でともかく何か変化を求めている。社交界へ出たがって、早く大きくなりたがっている。別荘地のニイスの社交界なんぞではなく、華々しいペテルブルグかロンドンかパリの。
「私が自由に呼吸できるのはそこである。社交界の窮屈は私にはかえって楽だから。」マリアは自分が社交界に出たいのは、「結婚する為ではない。母様と叔母が、そのなまけをふり落すのを見たい為である。」公爵Hが結婚した報知は十三のマリアの手からその新聞を「取り落されず、反対にそれは私にはりついた。」「おお私は何を読んだのでしょう! 私は何を読んだのでしょう。おおこの苦しさ。」「今日から私はあの人に関するお祈を変える。」「書けば書くほど書きたいことが殖えて来る。それでも私の感じていることを皆書くことはできない! 私は力以上の絵を仕上げようと思いついた不幸な画家のようだ。」
マリアは十四歳になった。「どうすればみんな子供からすぐ娘になれるのだろう? 私にはわからない。私は自分にきいた。どうしてあんなのだろう? いつとなしにか、それとも一
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