日でか? 人を発達させ、成熟させ、改善させるものは、不幸か、でなければ恋愛である。」猛烈に生きたがって世間へ出たがっているマリア。「本当にそうだ。私は自分でもこれほど熱烈に世の中に出たがる心持は短命の前兆ではあるまいかというような気がする。誰にわかるものか!」
 この年の九月にマリアは母や叔母たちおきまりの同勢でミケランジェロの四百年祭を見るためにイタリーのフロレンス市へ旅行した。趣味のある娘ならその前で讚美するのがきまりとなっているラファエルの聖母を、マリアははっきり自分は不自然だからきらいだといっているのは面白い。そんなに理解力のつよいマリアさえも貴族としての境遇は愚にした。「ロシアには下らない人間がたくさんいて共和制を欲しているということである。堪らないことである。」と考えたり、それら急進的な人々は「大学とすべての高等教育を廃止する」ものだという間違った説明をふきこまれたまま怒っている姿は哀れである。
 ロシアの一八六〇年代から八〇年代は、単にロシアにとってばかりでなく世界の人類の進歩、解放の歴史に大きい意味を与えた時代であった。ロシアでは一八六一年農奴解放が行われたが、これはドイツにおける農奴解放と同様にこれまでの農奴として地主のために賦役させられた農民が、今度は生きるために「自分の意志」で賦役制度にしたがわなければならないことになった。農民の貧困は改善されなかった。それこそ、マリアが知っていれば何よりきらいな、うそといつわりの解放であった。この重大な時期に、マリアがロシアに生活せず、パリやニイスやイタリーを親切ではあるが旧時代の世界に住んでいる女親たちにとりかこまれて、領地の農民たちからしぼりとった金を使いながら歩きまわっていなければならなかったことは、マリアの知らない生涯の大損失であった。当時ロシアの貴族の若い娘たちの中から、卓抜な努力的な新しい道を生きた婦人たちが何人か出ている。例えば十九世紀の後半、全欧州を通じてもっとも著名な女流数学者であったソーニァ・コヴァレフスカヤは、マリアより十歳の年上であった。そしてロシアの進歩的な若い娘が旧式な親たちの望まない知識と社会的自由を手に入れる特別な方法として選んだ名義だけの理想結婚をして、ドイツへ行き、この頃はハイデルベルヒ大学やベルリンで数学の勉強をしていた。
 又、彼女が「野獣」と呼ぶようにしか教えられていなかった急進的な一団のロシア人の中には、クロポトキンがその「思い出」の中に、愛惜をもって美しく描いている有名なソフィア・ペロフスカヤのような秀抜な革命的な若い女もいた。一八八〇年代というときは、又ロシアに最初のマルクス主義団体が生れ、マルクスの「資本論」が翻訳されていた。ヴェラ・ザスリッチのような歴史的な業績をもつ婦人もある。マリア自身、いかにもロシアの女らしいゆたかな生活力と天質に燃えながら、しかも同時代のロシアの歴史の精華と何の接触ももつことができず、それどころか、全く誤った見かたにおかれた彼女の境遇を私は哀れに思う。
 当時全ヨーロッパが最良の精力をつくして、より合理的な社会生活をうちたてようとしていたまじめな人間努力の影響が、マリアの生活に欠けていたことは、マリアが二十三になって、ますます絵画に精進し、芸術におけるリアリズムをとらえ得るようになって来たとき、深刻な矛盾としてあらわれて来ている。当時の芸術思潮の影響もあって自然であることの美しさを、古典的、人工的な美よりも高く評価するようになったマリアは、絵画の技法の上では驚くべきリアリストになりはじめた。ところが、画題の選択の面では彼女の少女時代からつきまとっている貴族主義、壮美の趣味がつきまといつづけた。「出あい」を描く一方で、マリアは刺客におそわれている「シーザア」やキリストを葬ったばかりの「二人のマリア」の大作を描こうと勢いこんでいるのである。

 十五歳で、辛辣に小癪にも人類への軽蔑を表現しているマリア。同時に「人は何故誇張なしに話ができないのだろうか」と苦しんでいる正直なマリア。十六の正月はロオマで迎えられた。この四ヵ月にわたるロオマとネエプルの旅の間で、マリアの第二の愛情の対象となった伯爵アントネリオの息子ピエトロと相識った。ピエトロはマリアに魅せられ、マリアもつよく彼にひきつけられて、この一八七六年の日記は、寸刻もじっとしていない若々しい激情の波瀾と、まじめさとコケトリイとの鮮やかな明暗が一頁ごとに動いている。ロオマの謝肉祭《カアナバル》のときの色彩づよい記録。こまやかに書かれているピエトロとの対話。マリアの若い娘らしい嬌態は、十六の少女のやみがたい愛への憧れと同時に目かくしをされ切ることのできない性格的なつよさ、冷静さの錯綜から生じている。ピエトロとの結婚がロオマの社交界で噂されたが、マリアは
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