拒絶した。
「私は実際彼を愛したか? 否《ノン》。いやもっと正しくいえば、私は彼の私に対する愛を愛したのである。けれども私は愛において不実であることができないので、自分でも彼を愛してるように感じていた。」
この夏、マリアは八年ぶりでロシアへかえり、ポルトヴァの父の家に冬まで滞在した。
「これまで愚かしい生活をして来て自分の好きなまねばかりしていたが、絶えず物足りない心持で、決して幸福でない」父。マリアの養育のためには一スウの金も出さないのに、成長した美しい娘の上に威力をしめそうとする父。まだ美人といえる若さだのに、不幸な結婚生活のために神経質になってしばしば発作をおこす母《ママン》。ロシアからパリへかえって来たと思うと、もうニイスへ行くために「三十六の手荷物のために死物狂いになるまで私を働かせる」母《ママン》。「おお! 私は抑えつけられるようだ。私は息がつまりそうだ。私は逃げ出さねばならぬ。私は堪えられない[#「私は堪えられない」に傍点]※[#感嘆符二つ、1−8−75] 私はこんな生活をする為に生れたのではない。私は堪えられない!」「仕事をする機会が私を避けている!」「私は学問をしたくてたまらない。私には導いてくれる人が一人もない。」
内心の熱い輾転反側は彼女が十七歳の秋、ジュリアンのアトリエに通いはじめて、やっと一つの方向を見出したように見える。
「朝の八時から十二時まで、それから一時から五時まで絵を描いていると、日が早くたってしまう。しかし往復に一時間半かかる。私はこれまで失った年月のことを考えると腹立たしくなる。十三の時にこんな風にして始めたらどんなによかったろう! 四年損をした!」「アトリエではあらゆる差別というものが無くなってしまう。名前もなくなる。姓もなくなる。そうして母の娘でもなく、ただ自分自身となる。自分の前に芸術をもっている一個人となる。そうして芸術以外には何ものもなくなる。実に幸福で、自由、得意である。ついに私は久しく望んでいる状態になった。私はこれを実現することができないので、どんなに長い間渇望していたかしれなかった。」
マリアの前には、やっと彼女が一人前の人間となってゆく道がひらけはじめた。自分の失った時間をとり返す決心をして、彼女は一日八時間の勉強の上に夜の部にまで出席した。画学生マリアの服装は質素になった。石膏模型、骨の見本、マリアは僅かの間にジュリアンのアトリエで一番技術をもったブレスロオという娘を唯一の競争相手とするところまで突進した。マリアの異常な才能は輝き出した。それにしても、マリアのいそぎよう! 彼女の日記のどの頁にも、芸術の成功についての不安、鼓舞、努力への決心がばら撒かれていないところはない。マリアは昼食さえ、アトリエへ運ばしてたべることにした。「私は自分に四年の月日を与えていた。七ヵ月は既に過ぎ去った。」マリアは「社交も散歩も馬車も、何ものも打ち捨てた」十八歳の七月三日の記事に「M……別れをいいに来た。」云々。そして雨の中を展覧会へ行くまで二人の間に交された話ぶりを記しているのであるが、このMというのが、今日の映画の「恋人の日記」のパン種となったモウパッサンの頭字だろうか。マリアは「Mの愛の火に心を暖められ」ながらも、落付いて、自分がMと「結婚しようというような考は一つもない」こと、「二年前まで私は愛と思い込んでいた」ものだが、愛ではないということを自分にはっきり認めているのである。そして、この尨大な日記の中にMという字はもう二度と出て来ていないのである。
十九歳のマリアの心持が芸術への熱中を通じて、ある意味で急速に社会化されて行く過程は実に深い教訓をもっている。マリアは本気で当時の社会における女の位置を怒っている。当時のフランスでは身分のある若い女はアトリエさえ独りでは行けなかった。ルウヴル美術館へ絵を研究にゆくにさえ、「いつも人に附添われて、馬車を待ち、家族その他を待たねばならない。」「なぜ婦人画家が少ないかという理由の一つもこれである。おお、残酷な習俗よ!」マリアは決然として書いている。「私は自分を束縛するあらゆる不利益を排して何物かになった一人の女のあることを、社会に知らせる一例を示したいと思っている。」
激しく出るようになった咳と聾になる恐怖との間で、二十歳のマリアはサロンへはじめてコンスタンシ・ルスという名で出品をし、合格した。この時のサロンにバスチャン・ルパアジュの有名な「ジャンヌ・ダルク」が出品され、マリアに甚大な感動を与えた。
サロンに入選しても、マリアはますます自分の画の不満を自覚してきびしく自分を鞭撻しているのに、家族の者がマリアの体を気づかう姑息な女々しい心遣いはマリアを立腹させるばかりである。マリアの耳では目醒時計の刻む音がきこえなくなった。過去
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング