ある。ところが、彼女が八つの年、ポルトヴァの貴族である父親と、やはり古い貴族の娘である母との間に不和が生じて、別居することになった。母はマリア、叔母、ジナという従姉、祖父、「天使のように比類ない」家庭医ルシアン・ワリツキイ、侍女などを連れ、ロシアを去って、フランスに暮すようになった。マリアは少女時代を南フランスのニースで育った。当時ロシアの貴族はフランス語を社交語として暮していたばかりでなく、マリアのこういう特別な境遇が一層フランス語を彼女の言葉にした。それで、自分の名もフランス流に、父称を略して呼ぶようになったのであった。
マリアは、はじめ声楽家になって、自分がこの世に生れて来たということの真価を発揮しようと思い立った。イタリーでその修業をはじめた。けれども、専門家としての練習に声が堪えないことがわかって(十六歳の時)、この希望は思い切らなければならなかった。もうこの頃から、徐々に気付かれず彼女の命を蝕む病の作業がはじまっていたのであったのであるが、マリアはそれを知らなかった。そして十七歳の年からジュリアンの画塾に通いはじめ、最後の七年間、彼女の豊富な情熱の唯一の表現、対象として画家としての刻苦精励がつづけられたのであった。彼女の最後を名誉あらしめた「出あい」は、今日世界名画集からはとりのぞくことのできないリアリスティックな傑作の一つとなっているのであるが、マリアが数点の絵とともに後世にのこした独特な日記は、マリアの死後一年に、小説家アンドレ・チェリエによって整理出版された。それ以来、英米訳が出版され日本訳は既に十数年前野上豊一郎氏によって発表されている。
余り多くの才能と余り短い命とをもったマリアは非常に早熟であった。彼女は十三になったとき、もう「私は十三である。こんなに時間を無駄にしていて、これから先どうなることだろう?」と溜息をついている。自分の命に限りのあること、その限りある命の中で、自分がそのためにつくられていると感じている勝利と感動とのために、何事をか仕遂げなければならない。マリアを寸刻も落付かせないその内部の衝動によって、彼女は十三から日記をつけ始めたのである。
普通日記というと、ひとに見せないものとして考えられている。マリアはこの点で全然別な考えをもっていた。はっきり、人に読んで貰うことを期待した。彼女は十六歳の時にこう書いている。
「私は自分の将来がどうなるかは知らないが、この日記だけは世界にのこす積りである。私たちの読む書物は皆こしらえものである。筋に無理があり、性格にうそがある。けれどもこれは全生涯の写真である。ああ! こしらえものはおもしろいが、この写真は退屈だ、とあなたはいうでしょう。あなたがそんなことをいうならば、あなたはひどく物のわからない人だと思います。
私はこれまで誰も見たことのないようなものをあなたにお見せするのです。これまで出版されたすべての思い出、日記、すべての手紙は、皆世界を偽るための拵えものに過ぎません。私は世界を偽ることには少しも興味を持っていない。私には包むべき政略的の行為もなければ、隠すべき犯罪の関係もない。私が恋をしようとしまいと、泣こうと笑おうと、誰もそんなことを気にかける人はありはしない。私の一番心にかかることは出来る限り正確に私というものを表わしたい[#「出来る限り正確に私というものを表わしたい」に傍点]ことである」と。
この、できる限り正確に自分を表わしたい、という衝動こそは、マリアの短い燃えきったような全生涯を貫いて、絶えず彼女を人間、女として向上させた貴い力であり、勇気と客観的な冷静さの源泉であった。大勢の女ばかり多い貴族的で有閑的な、つまり気力の乏しい家族にとりかこまれ、一見賑やかそうで実は孤独であったマリアは、よろこびも悲しみも、すべてを日記の中に吐露し、それを正確に吐露することで、一歩一歩と進み出て行っている。すっかり体が悪くなった一八八四年の五月一日に、マリアは五ヵ月後に自分の命が終るとは知らないながらも、いちじるしく肉体の衰弱を感じてこの日記に「序」を書いた。
「あざむいたり気どったりして何になろう? ほんとうに、私はどんなにしてもこの世の中に生きていたい[#「生きていたい」に傍点]という、望みではないまでも、欲望をもっていることは明らかである。もし早死をしなかったら私は大芸術家として生きたい。しかし、もし早死をしたらば私のこの日記を発表してほしい。」「もしこの書が正確な[#「正確な」に傍点]、絶対な[#「絶対な」に傍点]、厳正な[#「厳正な」に傍点]真実でないならば、存在価値はない。私はいつもただ私の考えているだけのことをいうのみではなく、またあるいは私を滑稽に見せるかもしれず私の不利益となるかもしれぬことをかくそうと思ったことはなかった。
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