令していない。また、この戯曲の中で集団としての反革命的な労働者たちが、終始一貫、気のそろった獣《けだもの》たちで、社会情勢の推移によって当然起る矛盾や動揺、分裂をちっとも示していない。これも、社会生活の実際とは違う。――
こういうベズィメンスキーの機械的マルクシズムを、リベディンスキーは、「ラップ」の中でも、盛に批判した。
その大衆的批判に向って、ベズィメンスキーは、元ペレウェルゼフ派の理論家ベスパーロフと、共同戦線をはった。ベスパーロフは、理論上清算はしたが、機械主義マルクシストの欠点をすてきっていない。彼に云わすと、「現実には、肯定と否定の両極しかない。善と悪。ソヴェトの現代ではそれがハッキリ分れている。」ベスパーロフが限定している芸術家の任務は、「その両極の尖鋭化された争闘を描写することを自得することだ。」そしてベズィメンスキーは、「射撃」における革命的善玉悪玉の飛躍で、「唯一の」階級的芸術家の任務を自得したと信じた。
だが、誰にでもわかる通り、これは誤った極左機械主義だ。「ラップ」が、現実から闘いとったプロレタリア・リアリズムの本道は、こういうところにはない。そこへリベディンスキーが「射撃」と全く反対な立場で執筆している「英雄の誕生」をもって現れた。ソヴェトの大衆と文壇が注目したのはあたりまえだ。
「英雄の誕生」の主人公は、ボルシェビクである古い党員で、革命のよい働き手だった。リベディンスキーは、この党員の私的な家庭生活を主題にとった。よい同志であった妻の死後、主人公は、その妻への愛と一人息子への愛のために久しい間独身生活をつづけて来た。彼のところには妻の妹が家政婦のようにして一緒に暮している。主人公の党員は彼女に対して女としての関心を一向感じず何年も暮して来たのに、或る日、その妹が髪を洗いかけて、乳房を出している姿を偶然見た。
党員は急に魅惑された。党の仕事机に向っていても、その義妹の胸が目さきにチラつく。眠れない。苦しい。死んだ妻にすまなく思う。等々、大いにそのもだえを持ちまわって、遂に義妹と性的交渉をもつようになる。しかし妹は同志ではない。ただの家庭的な女だ。党員は不満になる。ピオニェールである彼の息子が、父親のそういう家庭生活を批判する。党員は、到頭、どっか遠い地方へ出張してしまう。そこで連載が中絶した。というのは、実にすさまじい大衆の批判がこの作品に対して、まき起ったからだ。
リベディンスキーが、「射撃」の作者に対して、心理描写も、プロレタリア・リアリズムにとって欠くことの出来ない一つの要素だと云った時は、間違っていなかった。「英雄の誕生」でリベディンスキーは、では、どんな階級性や、社会性をもった心理を描写しているだろうか?
党内の或るものや、コムソモールはリベディンスキーを公然と非難した。経験あるボルシェヴィキは、「英雄の誕生」の主人公みたいな解釈や態度を性慾に対してもってはいないんだ。彼等は云った。自分一個の性慾の苦しみを、党の仕事机の前でもってまわって念いれて噛みなおし、味いなおし、さもそれが重大な社会建設の中枢にふれた精神作業だとでも思いこんでいるような間違いはしていないんだ、と。
リベディンスキーは、彼の持論である心理描写において、全く個人主義的な立場での心理穿鑿に陥ったばかりではない。人間の性慾というものの扱いかたにおいて、ウォロンスキーが「世界を見る芸術」という論文で云った一種の生物主義にまで近づいてしまった。ボルシェビキだって人間だ、人間であるからは性慾に苦しむこともある。という人間生物論めいた見解に陥った。しかも、作者は、そういう個人的な心理穿鑿をまるでくどくて飛躍のない、眠ったい自然主義的な手法で叙述しているのだ。
リベディンスキーは、この「英雄の誕生」において、生物としての人間が社会的な[#「社会的な」に傍点]階級人として成長をとげた歴史的な現代のソヴェトでは人間本能=性的慾求、食欲、知識欲という諸要素をどんな自主性と社会的見とおしで処理しようとしているかという事実について初歩的な理解と共感さえもっていないような態度を示した。
リベディンスキーは、「英雄の誕生」の弁明において云った。自分は、この作で、全然新らしい社会的結合としてのソヴェトの家庭の意味を書こうとしたのだ。ソヴェトにおいては家族制度の問題や、家庭内の男女同権の問題はもうすんでいる。男と女とが同等なもの[#「同等なもの」に傍点]として結合したところから発足して、子供を育てるということにソヴェト家庭の持つ全然新らしい意味を捕えようとしたのだ、と。
けれども、この云いわけは、リベディンスキーが連載した小説そのものが曝露している誤謬を訂正しまい。何故なら、リベディンスキーが男と女とが同等なものとして結合する、という同等の[#「同等の」に傍点]焦点が性にだけ集中されているのだから。ベズィメンスキーの極左機械主義にまけずプロレタリア・リアリズムの本質をゆがめている。
ソヴェト大衆が盛に「英雄の誕生」について議論し、「射撃」でやっつけられたベズィメンスキーが、今度は逆に、リベディンスキーとその前進性のない心理穿鑿主義をやっつけている四月に、「ラップ」に加盟したばかりだった「革命戦線《レフ》」の詩人マヤコフスキーが自殺した。
マヤコフスキーは精力的な、熱い、革命の歌いて、詩人だった。彼は前進するソヴェトの社会主義建設の歌いてとして、いつも最前線にいることを欲した。だから、自分が主として組織していた「左翼戦線《レフ》」を、「革命戦線《レフ》」と改めた。再建設期のソヴェトの文学運動において当然指導的な任務をおびる「ラップ」へも加盟した。マヤコフスキーが、詩人として天性の言葉に対する敏感さ、大胆な使用法を敢行する技術を身にそなえているにかかわらず自殺したのは、根本において、ソヴェトの根づよい、建設的なリアリズムが、彼の、詩的英雄主義[#「詩的英雄主義」に傍点]を揚棄したことを意味する。マヤコフスキーの死は、エセーニンの死のように、革命的なプロレタリアートの歩みゆく途からはぐれて起ったものではなかった。彼は、常にプロレタリアートと革命とのために第一線に立って、歩いて、歩いて来たが力つきて、倒れた。疲れることないプロレタリアート大衆は、その屍をこえて更に前へ! 前へ! 社会主義建設に向って前進しつづける。
真情のこもった大衆の丁寧な、告別をもって、プロレタリア文学史の上の一つの出来ごと、マヤコフスキーの死は弔われた。
「ラップ」内の自己批判は、この事件によっても中断されなかった。
ベズィメンスキーは、ソヴェト大衆の声高い遠慮ない批判の最前列にたって、六月、レーニングラードに開かれる「ラップ」大会に前進した。「ラップ」は分裂するかと思われた。が、リベディンスキーは自分の誤謬と、大衆の批判が正当であることを承認し、「英雄の誕生」連載を中止した。
「ラップ」は勇敢にこの激しかった内部の自己批判を、プロレタリア文学発展の一過程として、七月の第十六回ロシア共産党大会を迎えた。
スターリンはソヴェトのプロレタリア文学が、再建設期において益々大衆と生産に接近し、ボルシェビキ化することを演説の中で提言した。
「ラップ」からはキルション、ベズィメンスキー、セラフィモヴィッチの三人が代表として大会に出席した。「ラップ」がプロレタリアの階級的作家団体として経て来た過去二年間の闘争をキルションが報告した。彼は、偽りない態度でプロレタリア作家のまだ清算しきれない欠点として、文学制作に於ける唯物弁証法的手法の不十分な獲得について云った。しかし、「今こそ、プロレタリア作家は、党の中央委員会の文学に対するテーゼにおいて課せられた任務――プロレタリア文学の指導権を闘いとるべく前進している。――それは事実だ」。拍手。「同志《タワーリシチ》! われわれプロレタリア作家はただ書いたばかりではない。書くために、実際革命に直接参加しなければならないことを認めて来たし、認めている。党の委任に従って、党の出版物の委任に従って、我々は多くの任務も果した。我々は階級的敵と作品を武器として闘ったばかりではない、面と面つき合わして闘ってきた。今年、二人の地方ラップ(プロレタリア作家同盟)指導者が農村で富農のために殺されたことは偶然ではない。我々は、これまで嘗て書斎に閉じこもっていたことはなかった。これからも閉じこもらない。我々は社会主義建設の直接な参加者になりたい。我々の創作が党の手によって我等の敵に対する武器となることを希うのだ。」
キルションは、ソヴェト各地方の党機関が、支部ラップに対して、これまでより一層注意ぶかい支持者となることを要求した。階級的文学運動のための働きが、党、赤軍内での働きに比べて、傍系的な、場合によっては劣った仕事だと考えたがる党員の偏見を、彼は滑稽に描写して代表を笑わした。
そして、キルションが、最近のプロレタリア文学の代表作として六十の作品を列挙して読み上げた時、大劇場にいっぱい詰っている党代表者たちは、あっちこっちから元気に叫んだ。
――足りないぞ! 足りないぞ! もっと沢山待ってたぞ!
これは、嬉しい鼓舞ではないか! 全ソヴェトの大衆は、ほんとに待っているのだ、彼等のプロレタリア作家が、百も千も、いい彼等の文学的生産を示してくれることを。
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報告された作品と著者。
アフィノゲーノフ 「恋人」「マリーナのジャム」
ベードヌイ 多くの、読者に知られている傑作。(毎日の『プラウダ』にのせられる詩作を中心として)
ベズィメンスキー 「射撃」
ボグダーノフ 「最初の娘」
ブスイギン 「お喋りになった」
ウィシニェフスキー 「第一騎兵隊」
ゲラシモフ 「詩集」
ゴルバートフ 「細胞」「我等の市」
ゴルブーノフ 「氷片」
グローモフ 「十字架のために」「馬牧」
ジャーロフ 「第一候補者」「詩集」
ザビヤーロフ 「堤」
ザルカ 「勇敢な裁縫女」
イリエンコフ 「アノーハ」
イリョーシ 「ティッサが焼ける」
イーズバフ 「銃と本をもって」「破滅」
カラーワーエヴァ 「製材工場」「門」
キルション 「レールは鳴る」「麦」「風の町」
クリャージミンスキー 「ギター」「若者」
コーチン 「村娘」「農村通信員の手記」
ラヴルーヒン 「英雄の足跡を」
リベディンスキー 「曲り角」「丘陵」「英雄の誕生」
オワーロフ 「饒舌」「赤と黒」
パンフョーロフ 「ブルスキー」(貧農組合)
プラトーシュキン 「道で」
ポレターエフ 「詩」
スビョートロフ 「詩集」
セラフィモウィッチ 「争闘」
スタフスキー 「コサック村落」
スルコフ 「詩集」
ファジェーエフ 「ウデゲからの最後の者」
チュマンドリン 「ラブレ工場」
チュルキン 「氷片」(戯曲化)
ショーロホフ 「静かなドン」
シュウェードフ 「ユールバザール」
ユーリン 「詩」
エルドベルグ 「支那小説」
ヤセンスキー 「パリを焼く」
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注目すべきは、この表に、多くのコムソモール出の作者の名が現れたことだ。彼等はドンバスの炭坑から、ヴォルガ沿岸地方から、またごく辺鄙な農村から出て来たコムソモール達だ。
例えばラップの事務所へ行って、何か質問をする。黒地に赤糸で縫いをしたルバーシカを着た快活な青年が、親切にだが到っててきぱき応待してくれる。事務員ではない。彼は作家だ。この表にも名の出ているチュルキンだ。――若いソヴェトのプロレタリア作家たちは、見かけからして、ブルジョア作家の病的な特性をすてきっているのだ。
社会主義の勝利へ!
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