派《クーズニッツァ》」などが、一般に作品も多く発表し、読まれた。その理由は、よくわかる。こういう団体の作家連にはプロレタリア作家のもっていない過去の文学的素養がある。言葉を使いこなし様々の題材をくっきりと表現し、読ませてゆく腕はもっているのだ。
ソヴェトのプロレタリアートは、一年一年と、ただの「読者」、文学の消費者ではなくなって来ている。凡そ五万七千もある労働者クラブには、文学研究会、劇研究会がある。ロシア・プロレタリア作家連盟から指導者が出かけて、そこで研究をやる。毎週十五カペイキの『小説新聞』が出る。工場新聞や、壁新聞、これはみんな職場のプロレタリアートによって書かれる。三十万人からいる労働通信員、農村通信員が直接書くのは、政治・生産に対する階級的批判だ。けれどもこういう根本的なソヴェト社会生活の事実を記録し批判してそれを書いてゆく訓練は、芸術作品に対してもより積極的な鑑賞の水準を与える。或るものは、自身短篇小説や論文を書き出している。――確実で増大率でソヴェトのプロレタリアートは自身が文学の生産者となりつつあるのだ。
五ヵ年計画がはじまった。アメリカに|追いつけ《ドグナーチ》! そして|追い越せ《ペレグナーチ》!
生産、文化。ソヴェト社会生活全線にわたる社会主義的競争《ソチ・ソレウノワーニエ》へ! の召集。
ロシア・プロレタリア作家連盟(ラップ)は、五ヵ年計画とともに、従来やって来た文学研究会指導の領域をもっと広く、建設事業と密接な社会的活動へとひろげた。
「ラップ」は文学ウダールニクを組織した。ソブキノの撮影隊はカメラをもって、「トルクシブ鉄道」布設工事の現場へ、ヴォルガ地方の集団農場へ、バクーの油田へ、出かけて行く。文学ウダールニクの道具は鉛筆とノートだ。彼等は新たに建てられた農具工場、セルマシストロイへ出かけた。シベリアの集団農場や、ドンの炭坑、ゴーリキーの故郷ニージュニ・ノヴゴロドに立てられたソヴェト・フォードの自動車製造工場へ行った。
文学ウダールニクは、五ヵ年計画によってそこに開始された新たなソヴェトの生産の偉大な拡大をまのあたり観た。革命的プロレタリアートと農民とが、どんな決意と努力で、村や職場にウダールニクを組織したか。農村の集団化と工場内の社会主義化は、ソヴェトの大衆の日常生活にどんな変化をもたらしたか。尖鋭化された国内の階級的対立は、どんな心理を発生させているであろうか。現に「ラップ」の二人の作家は富農《クラーク》とその一派の農民のテロルによって殺された。ソヴェトの「あらゆる物質的イデオロギー的富源と共に勤労階級のもの」であるラップの作家が、この歴史的飛躍の瞬間に、どんな芸術活動をもって、文化建設に参加するべきか、その具体的な方法が発見され、達成されなければならない。文学ウダールニクは、先ずその基礎的勉強として前進した。真直生産に従事する「大衆の中へ!」
「ラップ」の機関誌『十月』やまた、『文学新聞』『成長』『イズヴェスチヤ』などに、その文学ウダールニクの手記、記録がのるようになった。
それ等の手記や記録に、所謂芸術的磨きはかけられていない。然し、例えば遠いシベリアの奥で、農村が集団化され、播種面積が予定より五パーセント拡大された。その何平方露里かの社会主義化のかげに費されたソヴェト農民集団の階級的努力が、地味に、正確な数字と、見聞の記録によって速かに報道されているのだ。
ソヴェトの労働者と農民とは、十一年前に、やっぱり全線的な階級闘争をやった。それはあの忘れることのできない「十月」だ。今、再び五ヵ年計画によってソヴェトの勤労階級は全線的に自身を動員し、立ちあがった。が、「十月」時代の英雄主義《ヒロイズム》と、現在社会主義建設のためかくれた功績をつみつつあるプロレタリアート農民の英雄主義《ヒロイズム》とは、まるで、心理も、表現も違う。
一九二八・九年のソヴェトの英雄は、銃を持ち血走った眼で森の中にかがんではいない。槌をもって、或は動力《モーター》のスウィッチの番をして、工場の粘りづよい労働の中にいる。耕作トラクターの油と耕地の泥にまびれながら、或は村の橋ぎわにマホルカ(下等煙草)ふかしながら、貧農と今夜の村ソヴェト集会について話している若者の中にいる。「ラップ」の作家たちは、それ等を記録するに空虚な形式上の目新しさが何の役にも立たないことを学んだ。誇張的な形容詞や、感歎記号や、ただ行《ぎょう》を切りはなして、
[#ここから3字下げ]
彼等は
働いている
工場で※[#感嘆符二つ、1−8−75]
[#ここで字下げ終わり]
と書いたりすることは、ちっとも必要でないことを、自得した。階級としての人間の集団と集団との関係。人間と機械との関係。それ等は、具体的な社会主義社会建設のための諸活動の光で明るく照らし出され、文学の創作方法として久しく問題にされていたプロレタリア・リアリズムの道が、現実の中から現われて来た。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* ソヴェトの五ヵ年計画実施とともに現われたプロレタリア文学のこういう形態を、今日各国で、報告文学と呼んでいる。しかし、その命名親は、範疇ずきのドイツ人だ。本家のソヴェトでは、どんな名もつけてはいない。
[#ここで字下げ終わり]
「ラップ」は、こうして作家を生産の現場へ送りこみ、大衆に近づき、再建設期のプロレタリア文学としての任務を自得しつつ、一方に他の文学陣営との間に理論闘争を、開始した。
五ヵ年計画を機会に、ソヴェト文学のいろんな流派が、それぞれの本質をあらわにしはじめたからだ。
第一、「同伴者《パプツチキ》」作家団の問題がある。
一九二五年の文学に関する党のテーゼは、注意ぶかくこの問題にふれている。「同伴者《パプツチキ》」作家たちが持っている文化・文学的技術の上に専門家の多いこと、「同伴者《パプツチキ》」団体の内にも必然的な動揺があること。それ等の点を考慮して、「同伴者《パプツチキ》」作家の一部にあるブルジョア社会観・文学観と闘いつつ、一刻も早く彼等が革命的プロレタリアートの陣営に参加し得るように導かなければならないとした。プロレタリア作家団に対しては、同年の大会のとき、「同伴者《パプツチキ》」に対して左翼小児病に陥ってはならないと特別にルナチャルスキーも注意を与えている。
その後「同伴者《パプツチキ》」作家たち自身は、どんな自己批判と発展をとげて来たか、どんな態度で、進展するソヴェトのプロレタリア文化に功献して来たろうか。彼等の多くは、本が売れるにつれていつの間にか、書斎の中でヤーエンコしはじめた。革命当時、「装甲列車」を書いたフセワロード・イワーノフは、ロイド眼鏡こそ昔のままだが、気力のない、階級性欠落状態で昔の思い出や個人的な心理描写をはじめた。
現実の生活で、ソヴェト勤労者の日常と次第に遠くなった彼等は、目立たない日常些事の中で若い労働者や農民たちがどんな探求と建設とを行い、未来への闘争を準備しつつ新しいソヴェト人として成長しつつあるか、その生きた姿を認めそれを評価する機会と熱心さとを失った。実際生活が個人主義へ逆転するにつれ、その文学の新鮮さも失われた。あともどりした自然主義と、低徊的心理主義とで、「同伴者《パプツチキ》」は、自身の同伴すべき道から逸れはじめた。
そこへ五ヵ年計画がはじまった。そして「赤い木」の事件で、「同伴者《パプツチキ》」は最後の限界につき当った。
「赤い木」というのは、「同伴者《パプツチキ》」の旗頭、ピリニャークの小説だ。一九二九年にそれを書いて、ピリニャークは原稿を『赤い処女地』の当時の責任編輯者ラスコーリニコフに見せた。ラスコーリニコフは、十月革命当時、軍事革命委員の一人としてレーニンとともに活動した党員だ。彼は、原稿をよんで、政治的な部分は根底から書き直す必要があると注意した。「赤い木」で、ピリニャークは農村の社会主義化、即ちソヴェト五ヵ年計画の意味を決定する根本的な大事業を扱った。それを、全然反動的見地から扱った。「ソヴェトにおける経済政策は都会に於ては革命前の時代からあったものを徐々に食いつぶして行くことを余儀なくさせ、農村においてはそれは裕かな几帳面な一家の主人を、貧農にかえるべく、風の吹きとおすあばら家一つの持主にかえるべく、向けられている。」と。
おまけにピリニャークは、断言している。我国にはいかなる社会主義的組織もないと。農村集団化の問題は困難な実践だ。ソヴェトの作家たちでも、富農撲滅の必然性を把握することのできないものが少くなかった。一九二一年の新経済政策以後は、農民に雇傭労働の自由や、土地の賃貸借、収穫物の自由売買等が許され、それが段々農村に於ける資本主義への後もどりとなった。その結果一九二七・八年、秋、政府は、富農の妨害にあって、麦の買いつけに大困難し、一種の強制買付を行った。
「だが、富農は遊んで食って富農になったんじゃあない。彼等はつまり他の農民より稼ぎ手だったと云うに過ぎない。ソヴェトに彼等は必要だったのだ。それをどうして今急に撲滅しなければならないのか?」多くのものがこう云った。が、そういう人たち自身がその答えを与えているではないか。問う人自身が既に、「ソヴェトに彼等は必要だった」と云ってるではないか。とりも直さず、彼等の必要はもう過去のものとなっていることを語っている。情勢は推移する。社会主義建設に向って推移しつつある。嘗て「成金《ネップマン》」は個人資本をソヴェト生産内に流用したことによって役に立った。しかし、今日誰がネップマンの必要を認めるか。ネップマンが、儲け専一のブルジョア企業家の滓《かす》であり、ソヴェトの社会建設に入用だったのは彼等の階級でなかったことは明かだ。富農《クラーク》も社会主義建設への過程的な現れだった。それが、前進しようとするソヴェト生産の社会主義化を妨げるほど、階級として過渡に発達したなら、それは揚棄されなければならない。
ピリニャークは、この事実を理解しなかった。更にそれ以上の階級的裏切りをやった。ラスコーリニコフが忠告した時、この原稿は草稿で、長篇の中へ入れるときは書き直すつもりだ、と云っておきながら、ピリニャークは原稿をそのまま、レーニングラード対外文化連絡協会の手を経て、ベルリンへ送った。白系移民の本屋「ペトロポリス」が、よろこんで直ぐ出版した。
一九二五年、党は「同伴者」の反プロレタリア的・反革命的要素が「現在では極く僅かしかない」と認め、前述の忍耐づよいテーゼを出したのだ。「赤い木」の場合にピリニャークがとった態度は果して彼の「極く僅かしかない反革命的、反プロレタリア的要素」を示しているだろうか。
同伴者《パプツチキ》の裏切的な態度に対して、つよい批判を向けたのは、「ラップ」ばかりではない。勤労大衆の中から一般的非難が起った。
ピリニャークは、生れつき胆の太い男だし、従来、ソヴェト文学の領域で同伴者《パプツチキ》に許されていた地位を過大評価していた。今度は彼もあわてた。理由にならない理由を並べて弁明しようとした。どんな弁明も、明らかにされたこの同伴者《パプツチキ》作家の反革命実践はとり消さない。憤ったソヴェトのプロレタリアートはピリニャークに階級の敵を感じた。
ピリニャークは、ロシア作家協会の議長をやめた。ロシア作家協会は改造され、名称をソヴェト作家協会とした。これは、ピリニャーク一人が、ソヴェト文壇の目立つ地位から退いたことではない。漠然としたロシア[#「ロシア」に傍点]の作家協会ではなく、ソヴェトの=社会主義社会での文学団体としての本質を明瞭にしたわけだ。
それまで、「同伴者《パプツチキ》」に属していた若手の作家の或るものは、「赤い木」の事件によって、はじめて自分のいた陣営の正体を知り、「ラップ」に加盟した。
(2)[#「(2)」は縦中横] ――えせマルクシストの清掃――
全露農民作家協会《ヴオクプ》というのがある。
これは、ソヴェトの現実に於て、まだ都会
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング