それとたたかって来た官僚主義との闘争だし、メイエルホリドの演出も、喜劇的な誇張に反撥しなければ幕から幕へ観てゆくに退屈はしない。
だが、一九七九年代のソヴェトにおける社会主義の社会生活の内容というものは、ラジオによる全同盟の決議という空想からはじまって、どれもこれもひどく架空的な印象を与える。つまり、五〇年後のソヴェト社会のものとして現わされている批判が、一九二九年代の現実性から発展した事実としての必然性、具体性を一向もっていない。機械的に、一九二九年の現実の否定な面に対する否定だけが示されている感じだ。ソヴェトの一九二九年は南京虫と官僚主義だけで代表されてもいない。
まして、ソヴェトの勤労人民の誰が、五ヵ年計画を十度やったあとの社会には、一匹の南京虫と一人官僚主義的俗人が、博物学の標本としてのこるような世の中に成ると思っているだろう!(帝国主義諸国が地球の大部分をしめて、その利害を必死に守ろうとしているとき。)
メイエルホリドは、作者マヤコフスキーといっしょに一九七九年の社会主義社会の文化を示そうとして、いろんな機械を舞台の上へもち出して来る。それにも、実感がない。社会主義の社
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