いるのだ。
ベルリンでスカラ座のカルメンを見たとき、スカラとも云われるものが、あんまり群集をぞんざいに扱っているのにおどろいた。合唱こそしているが群集の男女の気分もバラバラ、眼のつけどころもバラバラ、いかにも、はい、わたしの役割はこうして歌うだけです、という風だった。
歌舞伎の群集は筋の説明の上にだけ役立てられ、所謂「土地の者、数人」がガヤガヤで、群集の力として迫って来るものがない。民衆の運命は計算されていない。
革命によって洗い出されたソヴェトの演劇は、表現の上で、過去の「かたまり合った人間たち・群集」を明瞭に「意志する民衆の集団」に置きかえた。
「ゴトブ」のオペラでもバレーでも同じように合唱団=集団の統制を、こういう自主性をもって扱われることだと思っていたのだ。
「蹴球選手《フットボーリスト》」は、反対のことを我々に知らせた。「ゴトブ」の幹部連は、ブルジョア舞台芸術の個人主義、個人偏重からなかなかぬけられないでいることを。「ゴトブ」には、クリーゲルや、ゲリツェル・ソービノフ等々先輩の「人民芸術家」たちの下に、なったばかりの花形、或はなろうとしている花形が多勢いる。彼女、彼が機
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