るんなら、この手帳みてくれないか。
 ――ほう、よくも貼りつけたね。一杯、貼ってあるじゃないか、……これがみんなモスクワで見た芝居の切符かい? これ何だろ。
 ――ああ、『イズヴェスチア』へ毎日出る芝居の広告を、見本としてきりぬいといたんだ。
 ――何だい、この一等したの、大きな字で印刷してあるのは。
 ――ベガ――……競馬の広告だ。
 ――競馬もあるのかい? 行ったか?
 ――行って凍えて来た。
 ――金をかけるのか?
 ――かける。馬種改良の目的だから、馬は二輪車をつけて走るんだ。
 ――お前に競馬のことを聞いたって、ものにならないのは、わかってるよ。――おや、これは?
 ――劇場は、どこでもそこの壁新聞をもっている。工場や役所、学校と同じに。――劇場壁新聞の展覧会の写真だ。
 ――ふーむ。この一冊の帳面は全体が観劇日記みたいなものなんだね。
 ――ソヴェトでは、歴史の進展が実に速いからね。もう四五年してごらん、芝居だって、きっと随分変るだろうと思うんだ。面白いだろう? ソヴェトを愛する一人の外国の素人が一九二八年から三〇年頃の劇場を、どんな風に見ていたか。――

[#ここから7字下げ]
第一|国立オペラ舞踊劇場《ゴトブ》
バレー「蹴球選手《フットボーリスト》」
           グルジューモフ作
[#ここで字下げ終わり]

 中国革命と中国の美しい娘。帝国主義と軍国主義とを主題にした「赤いけし」がソヴェトの新しいバレーとして紹介されてから数年たつ。
 ソヴェト市民は新来の外国人を見ると、先ずいつも訊くだろう。
 ――赤いけしを観ましたか?
 しかし、それを観てしまうと、もうほんとに新しいソヴェトのバレーは種ぎれだった、昔ながらの「眠り姫」を見物しなければならない。――ソヴェトは、もう革命から十三年目ではないか。それだのに、バレーの状態は国立オペラ舞踊劇場の保守性を示してるのか。或はよい舞踊劇の作者がソヴェトにはまだ生れないということなのか。
 所謂ロシア舞踊は世界的名声を博していた。ソヴェトの全生活は急テンポに社会主義社会に向って前進しているのに、バレーがその動きをまるっきり反映しないというのは妙だ。――
 勤労大衆だって思っていることは同じだった。だから、五ヵ年計画第二年めに新作バレー「蹴球選手《フットボーリスト》」の上演が発表されるとそれは一般的な亢奮で迎えられた。
 ――どうでした?
 ――御承知のとおり何しろまるっきり新しいもんですからね。
 ――ようござんしたか?
 ――さあ。……とにかく見て御覧なさい。
 成程。――
 筋は蹴球選手と掃除女である女子共産青年《コムソモールカ》との変愛に非階級的なメシチャニン(小市民)の若い男と女とがからむという組み合わせだが、本質的にこれが、王子、姫君、横恋慕をする髯面武士の配列とどう違うだろうか。王子が、ソヴェト製の黒と黄色い縞の運動|襯衣《シャツ》をつけたフットボーリストに代っただけで、新しいソヴェトのプロレタリアートの生活感情は把握されてない。
 ただ、フットボール競技場前の広場へ、アルバート広場に群っている通りな、いろんな物売りが出ていて、あっちから巡査がやって来るのを見るとパッと蜘蛛の子ちらすように逃げ出すところは、活々した日常生活の光景からの断片で、そこのところで笑わないものがなかった。
 しかし、滑稽なことに、この一等活々したエピソードの場面は、実は「フットボーリスト」全三幕を通じて最もバレーらしくない部分なのだ。踊る物売りなんぞ一人もいない。卵の入った籠を抱えた婆さんや新聞売子が、ドタバタと、大きな第一オペラ舞踊劇場の舞台の右から左へ埃を立てて駈けこむだけ。地で行っている。それで思わず笑う。――
 ここでは現在及未来の新鮮なソヴェト社会生活を直感させるようなバレーの技術も欠けている。フットボーリストも箒をもった若々しい婦人労働者も、踊りかたは全く古典的なバレーの方法で、アンナ・パブロ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]の弟子だ。コムソモールカが昔のバレーの白鳥のようにやっぱりああいう風に爪立って、チョチョチョチョと歩いて、キュッと片脚をのばしている。
 服装だけのコムソモーレツとコムソモールカとが、超現実的に追いつ追われつ、爪先踊りをやって、メデタシ、メデタシになって、最後の五ヵ年計画バレー化に到っては、問題の外だ。
 五ヵ年計画を表徴するものが何だと思う? 変てこなヴェールをかぶった五人の女だ。その五人の女が、全然古風な、運命のつかわしめみたいな踊りをクネクネ踊っていると、舞台の奥へ、耕作用トラクターと数人の踊り子が出て来る。入りまじって踊り出す。トラクターが出たから農村の集団化を意味しようとしていることは確かだ。
 次に、仕掛の滝がザーザーおちは
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング