い照明に照し出された狭い置舞台の上を、華美な着付でうごくことでフレスタコフと市長夫人、娘の恋愛的情景に非常に圧縮された濃い深い雰囲気を出した点、メイエルホリド一流の好みで、ロイド眼鏡をかけたフレスタコフが、ゆきつ戻りつ、ステッキをふって市長宅へ出かける場面で、大胆至極な赤銅ばりの柵で舞台を横断させ、動く人間を一本の強い線の左右にキッチリ統一させた手際、平凡ではない。だが、大詰の場面にパッと本物、次には全く本ものかと思うような、しかし人間で結んだところは奇抜で、メイエルホリドが、写真で見ても一風かわった風貌をもっている所以がうなずけるようだ。
動かない人形。つめたい人形。そういうものがもっている劇的効果を大がかりに、而も百パーセントの技術でつかったのはメイエルホリド一人だ。(日本のおかめ[#「おかめ」に傍点]の面はエイゼンシュテインによって映画「十月《オクチャーブリ》」の中で極めてイデオロギー的に利用されているが)
それにしても、「検察官」の舞台に漂ったメイエルホリドの、底なしのデカダンスの肉感と、オストロフスキーの「森」の舞台の牧歌的朗らかな恋愛表現、哄笑的ナンセンスとの対照。又「D《デー》・E《エー》」の黒漆でぬたくったような暗い激しい圧力と「吼えろ! 支那」の切り石のような迫力との対照は、メイエルホリドがひととおりの才人でないことを知らされる。
「お目出度い亭主」は粉挽小舎だが、小舎のうしろの二つの風車は、粉をひくためばかりに廻っているのではない。舞台の上の劇的感情の高揚につれ、赤い大きい風車はグルリと舞台の上でまわり出し、遺憾なく波だつ感情の動的な、視覚的表現の役に立てられている。――
メイエルホリドは昔、モスクワ芸術座にいたことがあった。そこを出て、一九〇〇年代がはじまったばかり――ゴーリキーがそろそろ小説家として働きはじめる頃のロシアのどこかを放浪していた時分、まだチェホフが生きていた。チェホフもメイエルホリドの才能は感じていたと見える。誰かにあてた手紙の中に、チェホフらしい内輪な云いぶりで「彼の本当の道を発見させてやりたい」と書いた。
われわれにとって意味ふかく考えられるのは、このチェホフのこの単純に云われているが重大な言葉が、今日のメイエルホリドにとっても、まだ決定的に答えられていない点だ。
同じ頃モスクワ芸術座にいたスタニスラフスキー、メイ
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