知識の普及、衛生知識の普及、今日五ヵ年計画がどう行われているかというニュース、そういうものを芸術的にどう表現していくかという点に特長がある。同時に芸術的に技術的に非常に進んでいる。日本のように単なる娯楽というものでなく、娯楽というものを如何に社会的に有効に利用するかという、つまり教育的に使っている。それでいて芸術的価値は非常に十分に含まれている。だからソヴェトの映画を見ると、芸術を通してどれだけ知識の普及が出来るか、どれだけそういう目的をもった作品が高い芸術性をもち得るかということが分って、随分いい勉強になるわけである。

 この前では、一般の学校教育のことを話したから、きょうは芸術教育及び子供の劇場、そういうことについて少々お喋りして見たいと思う。
 我々が子供だった時に、子供芝居というものがあって、そこで昔からある、カチカチ山、瘤取りなどというものを有楽座で見た経験がある。大して面白いものでなかった。それ以来日本で子供のための子供の劇場というものが余り発達していない。
 現在松竹が一生懸命販売政策でもって、いろいろの新しいものをどんどんやっているが、本当に次の時代の人間のために考えた、子供の劇団というものを一つももっていない。あれだけの組織をもっていながら、資本主義の演劇ばかりやっていて、だからたとえ人気取りのため、社会主義的な脚本を上演するとしても、それはどこまでも社会民主主義的立場で、それで自分達が切符を沢山売って、利益を得て行くというだけの問題である。
 だけれども、ソヴェトでは演劇も、キノも、音楽も皆本当に民衆のもので、民衆の喜びのために、民衆の文化の向上のために、民衆自身が自分達の感情をそとへ表現するために、芸術教育も、それから職業的な芸術団体もあるわけである。
 ソヴェト・ロシア文部省の芸術部がそれを統轄して、演劇の上演目録審査委員会というものがある。そうしてシーズンが来て――秋から翌年春までのそのシーズンに、どこの劇場ではどれだけの上演目録をどういう順序でやって行くということをそこで決定し、脚本の選択をしてやって行く。労働者及び勤め人、そういうものは自分達の職業組合を通じて切符を半額で貰う。或る場合は全然只で貰う。
 それで劇場は必ずいつでも何割かを職業組合のために場所を取っている。あとの我々みたいな外国人は、窓口へ行って、そこに書いてあるだけの金でもって芝居を見なくてはならぬ。で我々は少くとも職業組合員の倍以上の金で芝居を見るわけで、それだけ職業組合のために、働く者のために便宜を計っている。
 子供の芝居はモスクワに二つ、レニングラードに一つ、それからトラム(劇場労働青年)というのがあって、今度新しい仕事としてピオニェールの劇団を組織した。
 レニングラードとモスクワに二つあるのは、それは大人が子供のために演ずる芝居、職業的な専門家が演ずる。
 非常に興味のある点は、そこで演ずる上演目録というものが、他の大人の劇場と同じソヴェト全体に取ってのその時の問題と密接に関連した主題をもった脚本を上演して行くことである。だから五ヵ年計画……ソヴェトの農村に於ける五ヵ年計画で集団農場の問題をどんどん取扱って行くと同時に、子供の劇場でも、子供に見せるために子供の理解し得る範囲で、やっぱり五ヵ年計画及び農村の問題、それから機械化の問題、電化の問題、そういうものをどんどん扱って行く。
 それで、そういう風にして、社会教育を施して行く一方、子供の感情の働き方、これは大人と違うから、つまり注意をどれだけ、何分間集中し得るかというようなことは、大人に育ってしまってからはよく分らないから、そこに教育部というものがあって、そこへ私が行った時に会ったのは、白髯の爺さんで、かれは何年も児童教育、児童心理学を勉強している人だったが、かれが主任で芝居がすすむにつれ子供がどこへ行ったら笑ったか、それが何分続く、それからどれだけ笑って、やがて退屈し始めたかという、そういう心理的な統計、それを皆んなとっている。
 だから、つまりその脚本の心理的な成功、不成功というものがよく分る。それによって児童教育に対する心理的なリズムというものをはっきり研究して行く。そういう点は非常に興味がある。それからそこへ子供は非常に安く入れる。二十カペイキの金で、或は全然只で学校から団体で連れて行く。各小学校が順繰に……。その上その見た印象を絵に書いたり、文章に書いたりして、教育部がそれを集めている。そしてそれがどんなものが子供に印象を強く与えたかという参考になる。
 私が見た時は、「印度の子供」というのをやっていた。それは殖民地の問題で、植民地でどんなに印度人がイギリス人に圧迫されているかということを知らすと同時に科学の力、智慧というものが人間の生活を便利にして行く、そのために人間は十分その智慧を生活の便利のために獲得しなければならぬということ、そういうことを知らすために、印度人の子供がレントゲンを見たことがない、ソヴェト科学者とその息子が印度に暮していて、それの息子がふざけてレントゲンでうつすとインドの子供の手が骨ばかりになって見える。自分は死んだとワイワイ泣くと、電気が消えて、レントゲンが消えて、また元の自分になって印度人の子供が非常にびっくりする。それを見ている子供たちも、とても一生懸命だ。印度人の子供が安心すると、自分たちも一緒に安心して拍手喝采するというので、非常にいいところがある。
 それから同じ「印度の子供」の、宗教反対教育のために、印度の小さい女の子が変挺子《へんてこ》なお寺の人身御供みたいなものに上げられてしまう。そしてその友達の、レントゲンを見て驚いた男の子が助けてやりたいと思って、科学者の息子に助力して貰いにいく。少年は寺へ侵入して偶像は偶像であるということを明かにして娘を救い出す。ある場面では日本の壇の浦の遠見の敦盛みたいに、オートバイが舞台の前から出て、遠くまで行ってむこうの高い橋を小さくなって走ってくるところを見せる。そこは操り人形になって来る。技術の上で非常に進歩的に、真面目に芸術的な効果の強い演出をやっている。
 その舞台の恰好は特別な恰好で、古代ギリシャの舞台、お能の舞台のようで、三方があいて、それが観客席に突出ている。それだから観客の中から舞台に非常に密接だし、必要なときは舞台をどこまでも拡大することが出来る。舞台がそういう形だから、観客と舞台の上の出来事が近くて、差別がはっきり分らないので、その場合非常に舞台と観客とを結び付けることが出来るわけである。そこではやっぱり大人の劇場と同じに、舞台装置の模型を作っていろいろなものをやっている。外国の翻訳もやり、ロシア作家のものもやる。
 それで興味のある点は、いつでもソヴェト全体が、生活の目標として、努力の目標としている点を子供にも理解させて、子供が大人の生活と同じに、自分が社会の一員として感ずるように、脚本を通して教育して行くということと、それから主題の扱いかたに全然欺しがない。子供を甘やかしていない。勿論分り易く扱っている。だけれども、社会主義的な見地は一歩も譲っていない。共産主義的な点で押して行く。そこが興味がある。
 外の国みたいに、子供のための読物、或は子供のための芝居、子供のための音楽、そういうものを大人が考えて、大人が自分のセンチメンタリズムでこね上げ、子供に当てはめて、甘いものにしたり、非常に程度の低いものにしたり、荒唐無稽のものにしたりする大きな間違いをしていない。
 それが興味のある点で、それは子供のための文学、所謂お伽話というものについても云える。お伽話というものは、例えば巖谷小波がこの正月にラジオで放送したああいう山羊の仙人というような話は、子供の話としてソヴェトにはないわけである。何故ないかというと、そういう風な全然子供自身が大人から聞かなければ知らないような、そういう幻想、それから変な射倖心、例えば鍬を借りて土を掘ったら金が出ましたという、そういう個人的射倖というものを主題にしたもの、それから個人的な名誉心を唆かすようなもの、例えば一人の子供が一生懸命勉強して、皆なを押しのけて、ひとりだけ一番いい子供になりすましたという、そういう観念、そういうことを話の中から抜き取ってあるわけである。
 勿論子供の向上心、好奇心というものを生かし大体子供そのものが連想の早い、空想的なものであるから、そういうものをどういう風に導いて行くかというとこんな風だ。
 例えば集団的生活の中で或る困難が起る。子供達が遠足に行ったとする。そうすると河があって、どうしてもその河を横切らなければ、停車場へ行って汽車に乗って帰ることが出来ないのに船が一つもない。見渡したところ橋もない。だけれども汽車の時間は切迫する。子供はどうしよう。そこで皆んなが智慧を出し合い、その中に賢い子供がいて、一つの手段を発見する、例えばあそこに大きい板と棒や何かがあるからそれで筏をこしらえて渡ろうということを提議する。そうするとその子供の智慧も立派に個人的な発見として集団の中に役立つ。それでその子供一人がいい子になるのでなく、皆んなが便利を受けて、子供の智慧で皆んなの生活を生かす。そういうように教えて行く。
 例えば空想でも、鶴に乗って空を飛んだということでなく、サア我々は今飛行機に乗ったよ。下を見ると、モスクワにはどんな工場がいくつあって、そうして発電所がある。その発電所と我々のところの電燈とどういう関係があるだろう? 誰か知ってるか? そういう風に、子供はどんどんそういう事実から想像することが出来る。
 何も、大人が特別に自分達の生活にないものをもって来て、子供の空想の種としようとする努力をしないで、子供は日常の生活の中の自分達の周りのものでどんどん連想を発達させ、想像を逞しゅうすることが出来る。だから十二三位の子供と話して見ると、彼等の有っている知識が実に整然としていて、範囲が非常に広く、国際的であるのにびっくりする。無駄がない。

 それからまた一方に、ソヴェトの教育は、労作と結び付いている教育である。だから例えば我々が学校で遠足に行く場合には、先生が、どこそこへ遠足に行くから金をいくら貰って、学校に何時にいらっしゃいということで、何行の汽車に乗るか、何分かかるか、東京から何マイルあるか、何にも知らなかった。
 だけれども、ソヴェトの子供は自分達の委員でもって、遠足する場合に自分達で研究する。汽車はいくらかかるとか、モスクワから何マイルあるとかいうことを調べる。それだから我々より余程自分がどこにいるかということの地位の測定とか、それから距離との関係、都会と田舎との関係、そこにある生産というものをよく知っている。そうしてそういうことをさせる習慣をつくらせる。だから今のソヴェトの子供が本当に新しい時代の人間として発育しつつあるということ、これは誰も否定することが出来ないものである。そこにソヴェトの未来の強さがある。
 それから音楽教育――音楽なんかでも、音楽の専門的な発達のための努力とその音楽を一般的に民衆に分からして行くこと、それから民衆自身が何か自分達の楽しみのために、或は集会の時に、示威行列の時に、自分達の楽隊で演奏するために、音楽の研究会というものは大抵どの倶楽部にもある。そこで主として吹奏楽、それでなければギターやバラライカを主にしたもの、それで一週間に何度と仕事のあとそこへ行って研究する。例えばメーデーの時、革命記念祭のデモンストレーションの時には、各工場は自分の工場の音楽隊を先に立てて行進して来る。
 専門的な音楽の発達のためには、ソヴェトは音楽学校の非常に程度の高いものをもっている。そこでシーズンが来ると、外国から来る人もあって盛んにやっている。それは全然専門的なもので、毎年専門技術家を卒業させて、新しい演奏家、作曲家がどんどん出て来る。
 ソヴェトでは昨今音楽でも一般的なプロレタリアートの精神を現した音楽と同時に、ロシア民族というものの有っている特徴を音楽の中に生かすことを問題と
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