というものもあって、これは非常に興味がある。併しこれはソヴェトには適用しない。何故かというと、アメリカの大量生産と、ソヴェトの大量生産とは目的が違う。性質が全然違う。アメリカは安い商品を如何に多く市場へ販売するかという資本家の慾に発足した商品の大量生産であるが、ソヴェトは目下非常に購買力の高くなったプロレタリアに如何に早く多くの購買力を充たすかという点から起って来る大量生産だ。まだ経済的に余裕がないし、時間的に余裕がないから、従って非常に細かい趣味というものを区別して造って行く余裕がない。
 ソヴェト・ロシアはプログラム一点ばりで進んで行く。それで無理が生じ、やがてその究極はと考えるものもあるが、ソヴェトでは二年前に出来たプログラムがそのまま五年間も持続されるというようなことは全然ない。ソヴェトの実際方針は根本的には一本であるけれども、弁証法的に非常に弾力をもっている。それだから一本調子でやって行くといっても、目的があって、そこへやろうという意味において一本調子であるけれども、或る人に云わせれば、どこに終局の目的があるか分らないという位、弾力をもって強く柔軟にやってゆくのです。
 優生学、ユーゼニックスは非常に社会的問題として注意深く扱われている。第一ソヴェトは昔から肺病の率が非常に多い。それから性病患者も勿論あって、そういうものに対して優生学から子供を、次の時代を改善して行くということは非常に熱心にやっている。成人、大人になった人間の健康状態を良くするという点、それから子供を出来るだけ丈夫に育てること、それには林間学校を拵えたり、工場付属の療養所、それから転地療養、それから現在は病気になっていないけれども、このまま働いて行けば病気になってしまうという人達は、昼間は働くが、仕事が済むと夜間療養所というものがあってそこへ行く。そこで風呂へ入れてくれる。栄養になる食物をくれる。そして必要な温度のある部屋で休んで、また翌日昼間働いてこれを一定の期間繰返して行くうちになるべき病気にならずに済む。
 ソヴェトの今の衛生の目標は予防ということ、病気になったものを手当するより、ならない前に手当するという主義で熱心にやっている。それだから子供でも赤ん坊の時に注意すること、それから生れる前に注意すること、それから子供をもつより先にお母さんが自分の衛生に注意する。こういう風に循環して健康状態を改良して行こうという努力は非常なもので、母性保護研究所なんかへ行って見ると非常によく設備してある。
 それから例えば子供を生む時は産院へ無料で入れる。産院を出ると、お母さんと子供の住んでいる区の健康相談所があって、そこへ産院からその子供がどんな発育状態で生れたか、お母さんはどういう健康状態の下に乳を与えているかということ、性病の遺伝があるかないか、そういうことを記入した子供と母親とのカードが健康相談所へ廻る。そうして無料で子供の健康診断を一月一度やってくれる。或る程度に子供が育つまで……若し子供の体に異状があったり、お母さんの体に異状があったりすると、健康相談所から病院へ報告してくれて、無料で病気を直してもらえる。ソヴェトの保健省は全国民を無料で医療させるということを目標にしている。農村の方の衛生準備はどうしても遅れていて、今度五ヵ年計画で診療所を非常に殖やすということで、医者を地方に派遣する新しい規定とか、いろいろなそういうものを制定している。
 それから恋愛については、第一変っていることは恋愛が自由ということ。ソヴェトは恋愛が自由である。フランスも自由である。そこでどう違うかというと、フランスが恋愛が自由だということは、資本主義末期の個人主義的に恋がお互を拘束しないということから起って来る恋愛の自由だ。男が或る女と関係して、嫌になって捨てる。女が姙娠しても男は責任を負わない。それでも女は訴えるところがなく、セーヌ河へ赤ん坊をもって飛込むという恋愛、フランスの恋愛技術は男より数の多すぎる女の経済的必要から進歩しているかも知れないが、社会的にはそういう風な個人的なものである。
 ソヴェトは恋愛が自由だというけれども、それは何故かというと、男も女も経済的に独立した社会人であるから、社会人としての責任は各自自分が負うから、そこで自由だということになって来るわけだ。恋愛はいくら自由だといっても、男が女と関係して姙娠したり、子供を生んだりした時雲隠れしてそれで終れりとしてしまうことは出来ない。子供の哺育費というものは男の月給の中から職業組合を通して取られる。それだけの社会的義務がある。若しその男がずるくて女が補助費を貰えない場合は、裁判をして男の親があれば、その親の家から子供の哺育費を取ることが出来る。(併し土地には手を触れることは出来ない。何故ならば、土地というものは農業生産の基礎である、一農戸に属するものだから、土地を子供の哺育費に取るということは出来ない。)

 勿論ソヴェトでも社会的責任を理解している人間ばかりはいないから、いろいろ間違ったことが沢山ある。だから自分の女房があっても他に女をもっている。要するに妾ですが、妾をもっている人もある。併し形はそうであるけれども、女がそれによって、つまり男によって食わせてもらっているか或はそれとも合意的に一時的に生産単位として独立している女が男とそういう関係を結んでいるかということで随分また社会的の意味は違って来る。現在の若い青年共産主義同盟員、女子青年共産主義同盟員、そういうものの恋愛に対する観念はどうかというと、戦時共産主義時代は、社会が新しいものを創り、古いものを壊そうとする非常に激越した時代だった。だから恋愛というものに対する考え方も或る点非常に機械的になってしまった。
 個人個人の間の恋愛形態が社会にどれだけ連帯責任をもつかということよりはむしろ旧時代の恋愛および結婚生活が絶対のものであるという私有財産制から発生したブルジョア一夫一妻制の宗教的考えを打破するに急であった。だけれども現在は建設時代に進んでいるから、恋愛、家庭生活、結婚ということが各個人の社会人としての連帯責任に基礎を置いているということがはっきりしている。だから万一一人の青年共産主義同盟員が片っ端から女を引っかけてゆくとする。それを恋愛は自由であるからとして放任して置くかというと全然反対である。余り非社会的な行為をする場合には青年共産主義同盟の中で、同志的制裁を加えるか、反省を促される。女の社会的価値を無視したことをやれば勿論除名もされ得る。だけれどもそれだけが第一の問題となって除名されるということはない。つまりそういうことをするのがその男の社会連帯責任を無視する一つの実例として見られるのです。
 それからお互の性的関係は先ず第一に衛生問題であって、性的な慾望をいろいろ宗教的に決めてしまったり、そこへ妙な道徳観を拵えたりする、そういうことはさっぱり捨てている。男女が互に好きだということ、それは性慾から派生した感情、そういう風にはっきり理解して行く。だから自分の性慾が自分を刺戟して或る人間に対する興味を感じた場合、その対手の社会人としての価値で引つけられたかどうかという点はきりはなして考える。その点での誤謬を冒すことは非常に減っており、その点ははっきりしている。
 フランスでは要するにブルジョア機構内で女が自分の性をどうしたら最も功利的に利用出来るかと考えている。だからフランスの女権拡張運動というものはどういう状態にあるかということの説明になる。だけれどもソヴェトでは男も女もそういう意味のブルジョア的性別は、減っている。何故かというと、労働において女は男の協力者であり、また家庭生活の中でも第一小学校から男と女のする仕事が別れるということがない。お弁当を食べる時……学校でくれるお弁当を食べると、後の皿を洗ったりいろいろすることは男の子も女の子も混って一緒にする。それから部屋の掃除も、畑を耕すことも、植物を採取することも一緒にする。托児所の揺籃から共学です。そういう点でも気分が自然違うわけで、つまり子供のうちから女と一緒に働き、一緒に仕事をするということから先ず根本の感情が出来ているから非常にはっきりしている。
 また女性の性の必然というものをソヴェト位保護しているところはない。フランスのような服装の上でまでの性の誇張、そういうことは勿論ソヴェトにはない。そのないことはそれでまた健康であると思う。
 女と男は元来咽喉笛の出来工合から違う。また筋肉、骨格皆それぞれ男女違っている。男は女の特色を気持よく感じ、また女は男の特徴を気持よく感ずる。それが性それ自身のもっている美である。お互いのそれを完全に保護する。女の体が柔かくて、丸くって、男の体が角張って骨が多い。それはつまり性の必然的差別と美しさである。そこでお互いの肉体がお互いの必然的限度までよく働いて健康を保っていれば十分美はある。
 ソヴェトの若い人間はそういう点で美しい。それだから、つまり資本主義社会のような性の誇張というものがなくなったからと云って美は減少していない。だから決してソヴェトに行っても決して美に対して心配する必要はない。それで非常に朗かで、私が丸三年ソヴェトにいた間に、男と女と仕事の上のひけ目とか区別を感じない。常に男が働いているところには女が働いている。また女の働いているところには常に男が働いている。だから男と女がまるで違った分野で違う給料で働いて暮すというようなことは、ソヴェトの若い人間はそういう社会内に生きる男女の感情を知らない位だと思う。
 それで恋愛の表現等でも、パリとモスクワと違うところは、例えばパリは引け時間、地下電車の入口に立って見ていると、女が先に来て改札口で待っている。すると若い男が来る。互いに抱き合って長い間接吻して、女と男と別々の方へ別れて行く、そういう表現をフランス人はする。が、ソヴェトの若い人間は往来で接吻するようなことはない。第一そういうものに対する解釈、そういう恋愛技術というものに対する考え方が全然違う。
 ソヴェトでは個人間の恋愛関係は、生産単位として各人を要求している社会の前に提出すべき第一の問題ではないからそういう点は考えかたが違う。仕事のためにどっかへ互に分れてゆく。これは当然だ。第一そんなに吸い付くということは衛生的でない。口の中には沢山のバチルスをもっているというようなことは子供の時から教えられている。そういうスローガンが衛生教育の一つの定規になっている位だ。
 青年共産主義同盟員は握手はしない。ピオニェールも握手しない。それで先ず第一に来ることは、恋愛の自由ということでも、家庭における婦人の地位の向上ということでも、要するに生産関係が変って、女が本当に生産の単位として社会の中に組織をもって現れて来ないうちは、何も根本的にはものにならないということがはっきりする。で恋愛は自由というけれども、公事ではないから、自分の私事問題だ。これが社会的に問題となって各自責任があるのは、女のもっている、或は男のもっている社会人としての責任義務を通して社会一般の問題となって行くだけである。恋愛をその日の事業として暮すというのであったら、それは社会人として第一に排撃される。クララ・ツェトキンの書いた「レーニンの想い出」に、戦時共産主義時代に若い党員が恋愛の自由ということを感違いして、いろいろの誤謬を起したことにレーニンが非常に心配して、今の若いものは恋愛というものは一つの生理的問題に過ぎないということを非常に誤解して、あんなに有望な青年達が娘のスカートを追っかけてゆくようではと非常に心配していたことを書いている。併しそういう点は今の若い人間はズッと進歩して健全になっており、それだけ社会状態が落付いて来たわけで、これはソヴェトが今再び建設時代に入っているはっきりした証拠である。
 それから映画も、芸術を通して社会主義社会をどういう風に建設して行くか、ということを一般に知らすものとしてつかわれている。ソヴェトが今日に至ったまでの歴史、生産に対する
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