ソヴェト・ロシアの素顔
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)有《も》っている
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これは自分が喋って速記をとったものです。自分で書く時間がなかった。話しかたが下手だから、大してうまく行っていないかもしれないが、一九一七年の革命以来、種々なデマゴーグによって歪め伝えられているソヴェト・ロシアの日常について、実際的な或る訂正としては役に立つと思う。
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ロシアに入って真っ先に印象されたのは第一万事が珍しいということ。それに革命前及後のロシアというものは、文学で幾分知っていたし、自分に縁のないところへ来たとは思わなかった。丁度モスクワに着いた晩は雪が降っていた。橇の上から見ると、雪がドンドン降っているし、夜だし、非常にはっきりした所謂ロシア文学的印象が多かった。
ロシアの家庭の問題については、資本主義的私有財産制を基礎とした家庭というものは勿論崩壊している。併し独立した社会人としての家庭の各員が共同の連帯責任を以て、社会人としての義務をお互に果して行く家庭は勿論鞏固に発達している。が、普通の概念に於ける家庭というものはない。つまり我々が眼にしている普通の家庭というものは、家長はおやじ。それでおやじが家族のお母さんや子供の世話を見る。おやじが一旦死んで、財産がなかったら親類の世話になる。家長というものに絶対責任を置いて、死んだら子供が路頭に迷う。それがつまり全然私有財産制度の下にある家庭である。
けれどもソヴェトでは、亭主は一人の労働者として、失業保険を有《も》っているし、また健康保険もあり、養老保険もある。それから家族があれば、家族に準じたパーセントでそういうものを増し受ける。また子供が学校に入ると……或る専門学校に入ると、卒業までには一人前の技術者、労働者として職業組合からの保護を有っている。そこで親子互に独立した労働者としての社会的保護を有っているわけで、これは全ソヴェト市民の権利です。だからそういう人間はおやじにたよらずに、また子供にたよらずに暮せる。
だけれども好きな同士だから夫婦になって一緒に暮す。子供はおやじや母と一緒に暮した方が幸福だから一緒にいる。だから外の国でのように家庭を城にして、それで浮世の荒波を防ぐというものではない。社会というものの上にある一つの小規模な連帯責任を有っている団体、そういう家庭で、おやじの身になっても、自分が死んでも社会が子供を保護してくれるという安心のある方が随分安全である。本当に安心して生産に従える。
また生活の安定ということに対しては、ソヴェトの社会主義を建設してゆこうという方向に自分も賛成で、そして忠実な勤人であり、或は労働者であるならば、日本の何よりも安定である。それは個人関係で保護されているのではなく、職業組合、労働省の法令、いろいろなもので組織されて保護されているから、非常に安全率が高い。第一組合の中で、或る労働者に対して一つの間違った処置があると、他の労働者がこれに対して自分達が有っている権利を適用し、間違った処置をされると自分達の問題だから、周りが黙っていない。いろいろな問題を提議するから、割合にそういう点は安心である。
例えば労働者を解雇する場合、工場の生産の低減をしなくてはならぬ已を得ない場合、労働者が工場に対して窃盗を働いた場合、それから三ヵ月以上収監された場合、そういうものは無断で解雇してもよい。そうでなければ労働者同意の上、或る場合は次の職業が見付かるまで、猶予してやらなければいけない。
女は尚更で、例えば、姙娠しているものは五ヵ月以上は解雇してはいかぬ。(工場に働いていることによって、職業組合の方から出産前二ヵ月と、出産後二ヵ月、前後四ヵ月の月給付きの休みを貰う。それから尚出産の仕度金を貰い、また出産後九ヵ月間子供の牛乳代を貰う。)それから乳飲児をもって一年以内のものは最後まで解雇しない。また年寄には養老保険がある。五十五か六十で養老保険を付けて、そして職業を離れてもよいことになっている。特に合理的なのは、除隊兵が若し入営まで労働者だったとすると、除隊後職業を見つけるまで生活保証を受ける。また労働者のためには特に「休息の家」があって、ソヴェトの生産別職業組合は「休息の家」へ二週間から一ヵ月、労働者を送って休養させる。
それから、ソヴェトでは女が生産単位としては全然男と対等な権利を有って、経済的に独立している。生産単位として女が全く男と同じ地位にいるという点で、その余のいろいろなものが、変って来るのは当然のことで、ただ他の国の婦人参政権、あれとソヴェトの女の獲得している自由とは根本的に性質が違う。だから恋愛の自由とか、家庭における女の地位の拡大、そういうものでも、要するに生産単位として、女が男と同じ技術、地位を有っているということから出発する。
以前のロシアは御承知の通り結婚する娘達が髪を編みながら悲しみを歌って結婚した状態で、女の文盲率というものも高かった。教会の坊主は亭主に絶対的服従を強いた。それだから、革命後の現在でもそういう歴史的理由によって一般の知識程度が男より低いということは勿論女自身知っている。だからいろいろなクラブの研究会や、文盲撲滅研究会、実際に工場に於ける熟練工に自分をすること、そういうことは非常に熱心にやっている。で第一ソヴェトでは男も女も同じ労働に対して同じ賃銀を払う。同じ賃銀を払うということは同等の技術を要する。だから女の技術が実際男と同じ熟練工でなければ、事実上の賃銀というものは低いわけです。で、女の労働者の中では、熟練工の少いということは、非常に自分達の文化の低いこととして一生懸命その技術向上に努力をしている。
ソヴェトの生産そのものは中間にはさまって搾取する人間のための生産でない。循環して自分達に来るものを、分割して各自やっているもので、だからソヴェトに於ける社会的生産上のサーヴィスというものは、自分達に対してサーヴィスすることだ。提供すべき生産力と、提供した生産力に対して受けるものの比例は、理想からいえば、出来るだけ均等なものにしようとしている。
例えば家庭というものは女にどうしても用が多い。洗濯をする、炊事、育児、そういうものをソヴェトでは出来るだけ社会的にしようとしている。炊事でもめいめいが台所で僅の材料を買って、時間を費して、大して美味くもないものを拵えて食べているより、モスクワでは既に出来ているが、大きな厨房工場、台所工場、そこで科学的に原料を調べて、この牛肉は何時に殺した肉だから、何時間後に何分煮て食べたら美味いかということまで調べて、調理し、そういうものを安く食べさせる。そういうことは非常に皆理想としていることだし、また女の非常に望むところで、こうすれば家庭の奥さん方の負担しているところがなくなる。そういうものを全体に社会主義化してやろうということ。これが家庭の日常生活の上で大きな意味をもってる。
食ったり飲んだりすることは、生活の準備行動で、その準備行動をもって一日過ぎてしまう日本などではこういう準備行動が非常に多過ぎるから、女が割合に進まないのではないか。また男がそういうことに所謂趣味を要求し過ぎると思う。
今ソヴェトにあっては、洗濯とか食事を共同でやる場所の数が足りないということが欠点で、厨房工場でも、日に何万人というほどの食事を用意する。そういう大仕掛でなかったら意味をなさない。こういうものが若しモスクワならモスクワの一つの区毎に二つも三つもあれば、個人の台所は全然必要はない。ところがまだそこまで行かない。モスクワ市中に五ヵ年計画の終りに五つか六つの大きな厨房工場が出来ることになっていて、それでも結果は大したもので、今でもそういう風な公共の食事場で食事をしている人間の数というものは大変に多い。一九三〇年に一日平均百三十万人の人間が公共的食事をやっている。
五ヵ年計画の終りには、都会に於ける七十五パーセントの労働者とその家族五十パーセントの料理を公衆食堂でもって賄うことが出来るようにしようという理想でやっており、着々進んでいる。この台所工場はモスクワとイワノボズネセンスク(ここは非常に大きな工場市だ。)それからニジニノヴゴロッド、ドニエプロペトロフスク等にあり、こういうところはソヴェトの新しい文化の中心となっている。
育児教育の方を見れば、一例としては新しい住宅建築共同組合で建てる建物の中には付属托児所を造るのを理想としてやっている。それでそういうものは最近非常に多くなって、多いところになると区の中にいくつもある。また工場では工場が托児所をもっているから困らない。
過去ロシアは非常に専制主義だった。それだから中学校に入るのにも、階級の低いものの子は(料理女百姓みたいなものの子)は入れなかった。だから中学へ入るのでも、養子に行って入るとかしなければいけなかった。普通は貴族か地主、軍人、技術家、大きな実業家の息子に限られていたが、今はプロレタリアート、働く者への教育は全部国庫負担にするということを理想でやっている。だから小学校は勿論専門学校も月謝を払わないで、職業組合が補助を与えて勉強させる。だから労働者の子供、農民の子供は第一列に入学させてもらえて、生活費を或る程度まで保証される場合があるから、若い人間は勿論喜ぶ。よくソヴェトの教育方針では個性の発育が阻止されるだろうという人がある。
勿論教育の基礎的方針は一斉に、学問と生産とを結びつけた共産主義教育というものをやっている。その中で個性がどうなるかという問題だ。個性の尊重というのは、要するにどういうところに、どんな風に個人の特殊な才能が現れるのかという表現の問題だ。或る一つのことに対する各自独特の表現が個性の表現である。その表現は各人の声の違うように違うはずである。で小学校はどういう教育をしているかというと、主題は一つだ。それはどういうことかというと例えば学年のプランが「春」という題を出す。そうすると、春は大人が都会及農村でどういう働きをするか、大人の働きを子供がどういう風に助けて働くかというテーマを出して、実際問題と結び付けて教えて行く。
教育は労働と結び付いたものだから、労働を主にして生産と人間との関係、自然と人間との関係を明かにしようとするものだから、春という題も、「春は霞がたな引きて」というのでなく、春大人は野に、都会にどう働くか、また子供はそれをどう助けるか問題をそういう視点から見てゆく。例えば春子供達は公園へ鳥の巣をかけにゆく。こういう社会的労作を現すのに或る子供は文章を書く、或る子供は作文が出来ないから絵で画く、また或る子供は雑誌を見たところがそこに出ていた絵が大変面白いと思ったからそれを切抜いて帳面へ貼ってわきへ唱歌を書いてこれを表現するという風にする。だから主題は一つだが、表現方法は非常に子供の性質、有っている表現力というものを尊重して行く。そうしなければならぬということは、経済的にいってそうです。個人が自分の不得手な表現を強いてするということは大変な精力の消耗だから。
ソヴェトが社会主義社会を建設しようとする大目的に向って基本的に決定している指導方向は断然一つだが、その中にある個性の尊重ということは非常に注意してやっている。活かして行かなければならぬ大きな存在というものは常に一つである。それは社会主義をつくるプロレタリアートの大衆的利害だ。その中で個々の性能をどんな方面に社会的に役立たすかという意味における個性尊重、どういう表現を通じて役立てて行くかという点における個性尊重というものは勿論十分各々行われている。アナキスティックな個性尊重というものは金持の坊ちゃんの存在しないと同様にないわけである。
アメリカは誰も知る通り大量生産だ。ソヴェトもそうだ。ところで現にアメリカでは大量生産に慊《あ》きかかっているではないか
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