を冒すことは非常に減っており、その点ははっきりしている。
フランスでは要するにブルジョア機構内で女が自分の性をどうしたら最も功利的に利用出来るかと考えている。だからフランスの女権拡張運動というものはどういう状態にあるかということの説明になる。だけれどもソヴェトでは男も女もそういう意味のブルジョア的性別は、減っている。何故かというと、労働において女は男の協力者であり、また家庭生活の中でも第一小学校から男と女のする仕事が別れるということがない。お弁当を食べる時……学校でくれるお弁当を食べると、後の皿を洗ったりいろいろすることは男の子も女の子も混って一緒にする。それから部屋の掃除も、畑を耕すことも、植物を採取することも一緒にする。托児所の揺籃から共学です。そういう点でも気分が自然違うわけで、つまり子供のうちから女と一緒に働き、一緒に仕事をするということから先ず根本の感情が出来ているから非常にはっきりしている。
また女性の性の必然というものをソヴェト位保護しているところはない。フランスのような服装の上でまでの性の誇張、そういうことは勿論ソヴェトにはない。そのないことはそれでまた健康であると思う。
女と男は元来咽喉笛の出来工合から違う。また筋肉、骨格皆それぞれ男女違っている。男は女の特色を気持よく感じ、また女は男の特徴を気持よく感ずる。それが性それ自身のもっている美である。お互いのそれを完全に保護する。女の体が柔かくて、丸くって、男の体が角張って骨が多い。それはつまり性の必然的差別と美しさである。そこでお互いの肉体がお互いの必然的限度までよく働いて健康を保っていれば十分美はある。
ソヴェトの若い人間はそういう点で美しい。それだから、つまり資本主義社会のような性の誇張というものがなくなったからと云って美は減少していない。だから決してソヴェトに行っても決して美に対して心配する必要はない。それで非常に朗かで、私が丸三年ソヴェトにいた間に、男と女と仕事の上のひけ目とか区別を感じない。常に男が働いているところには女が働いている。また女の働いているところには常に男が働いている。だから男と女がまるで違った分野で違う給料で働いて暮すというようなことは、ソヴェトの若い人間はそういう社会内に生きる男女の感情を知らない位だと思う。
それで恋愛の表現等でも、パリとモスクワと違うところは、例
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