えばパリは引け時間、地下電車の入口に立って見ていると、女が先に来て改札口で待っている。すると若い男が来る。互いに抱き合って長い間接吻して、女と男と別々の方へ別れて行く、そういう表現をフランス人はする。が、ソヴェトの若い人間は往来で接吻するようなことはない。第一そういうものに対する解釈、そういう恋愛技術というものに対する考え方が全然違う。
ソヴェトでは個人間の恋愛関係は、生産単位として各人を要求している社会の前に提出すべき第一の問題ではないからそういう点は考えかたが違う。仕事のためにどっかへ互に分れてゆく。これは当然だ。第一そんなに吸い付くということは衛生的でない。口の中には沢山のバチルスをもっているというようなことは子供の時から教えられている。そういうスローガンが衛生教育の一つの定規になっている位だ。
青年共産主義同盟員は握手はしない。ピオニェールも握手しない。それで先ず第一に来ることは、恋愛の自由ということでも、家庭における婦人の地位の向上ということでも、要するに生産関係が変って、女が本当に生産の単位として社会の中に組織をもって現れて来ないうちは、何も根本的にはものにならないということがはっきりする。で恋愛は自由というけれども、公事ではないから、自分の私事問題だ。これが社会的に問題となって各自責任があるのは、女のもっている、或は男のもっている社会人としての責任義務を通して社会一般の問題となって行くだけである。恋愛をその日の事業として暮すというのであったら、それは社会人として第一に排撃される。クララ・ツェトキンの書いた「レーニンの想い出」に、戦時共産主義時代に若い党員が恋愛の自由ということを感違いして、いろいろの誤謬を起したことにレーニンが非常に心配して、今の若いものは恋愛というものは一つの生理的問題に過ぎないということを非常に誤解して、あんなに有望な青年達が娘のスカートを追っかけてゆくようではと非常に心配していたことを書いている。併しそういう点は今の若い人間はズッと進歩して健全になっており、それだけ社会状態が落付いて来たわけで、これはソヴェトが今再び建設時代に入っているはっきりした証拠である。
それから映画も、芸術を通して社会主義社会をどういう風に建設して行くか、ということを一般に知らすものとしてつかわれている。ソヴェトが今日に至ったまでの歴史、生産に対する
前へ
次へ
全19ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング