はなされ、自分の仕事にあくせくと追い廻されながら、せま苦しい只一室を巣として、注ぐべき愛をことごとく幽閉して過す毎日は、遠く故国に自分を待って居る、「彼の女性」に対して、云うばかりない懐しさを抱かせるでございましょう。
荒んだ感情を持たない者は、恐らく十人が十人、郷愁に掛って居ると申せましょう。
別れて来た愛人を想う、愛すべき若者になって居ると思います。
従って、彼を中心として、後方に注がれる憧憬は、反映して、彼の目前に現われる物象への憧憬となり尊敬となるのではございますまいか。
素直にその心持を受入れる人は、活溌な微笑の所有者であり、明快な理智の把持者である対象に、人間らしい心持で、いいなと思います。が、従来多くの男性を圧殺し続けて来た、所謂男らしさに心の歪けさせられた者は、憧憬をねじ向けて、嫌厭に突込んでしまいます。そして、ちっそくしながら、地上あらゆる女性に向って、死物狂いの呪咀を浴びせるのではございますまいか。
其処で、私は、自分達と同じ女性であるという点から、一層公平に、彼女等の讚すべき美くしさと、尊さとを称すと倶に、彼女等の持って居る人間らしい欠点に就ても静かな省察を試みたいのでございます。
彼女等も人間以外の何物でもございません。
そう改めて云うと或は可笑しく響くかもしれませんけれども、私共は、お互が人間であると云う事を、余り等閑に附して、人を是非致しますから――。
彼女等の持つ力は、人間総ての女性に与えられるべきものであり、彼女等の苦しむ何等かの不安、不均斉は、又人間すべての女性が同じ涙で泣くものであると云う事を、私はいつも考えの裡に入れて置きとうございます。
――○――
こちらの婦人の体力の豊かである事は、一言の駁論も許されません。
彼女等は、思いのままに延びた美くしい四肢の所有者であり、朗らかな六月の微風に麗わしい髪を吹きなびかせながら哄笑する心の所有者でございます。
広大な地と、高燥な軽い空気は、自ずと住む人間の心を快活に致します。のみならず、婦人に向っても、何等の差異なしに開かれて居る生活の道程は、我国の婦人の強いられる極端な謙遜も卑屈さも味わせません。
彼等は、仕たい勉強が出来、生きたい形式で生き、愛すべき者を愛す権利を持って居ります。
此の生きたい形式で生きると云う事は、どの位人間の魂を広闊にするものでございましょう。
若し彼女が自身の力さえあれば、どんな大きな邸宅に百人の従僕を使って暮す事が出来ると倶に、どこかアパートメント只一つの部屋をかりて、男のような服装で暮したとて、誰も、其を非難したり変更させたりするものはございますまい。皆、各自の力でございます。箇性が、彼女等の全部を支配して居ります。日本のように絶対の親権もなく、彼女の魂まで自分の暴威に従わせようとする憎むべき良人の下で、光栄あるべき「女性」を殺戮されないでもすみます。
其故、こちらの婦人の生活を批評しようとしても、其処には殆ど無数の差別が必[#「必」に「ママ」の注記]される訳なのでございます。
数多《あまた》の人種が、混り、殖民化の歴史を持って居る国の女性としては当然な事でございますでしょう。が、先ず大体三つに分けて見ましょう。
そうすると、
第一は、思い切り保守的な、宗教的な婦人と、
進取的な、努力的な、従って標準より、より知的であると倶に芸術的である婦人。
第三は、良人から与えられる金を当然の権利として、彼女の意のままに消費する群、つまり流行の偶像であり、香油と白粉の権化であり、良人の虚栄の仲介者となって居る婦人達。アメリカの物質的方面を恐ろしい程体現して、自分はいくらでも、素晴らしい着物を着て出来る丈美くしく交際社会の花形となって居ればよいのだ。良人は自分のある御かげで、彼が如何に物質的豊富であり、女性を遇する方法を知って居るかを人に誇ることが出来るのではないか、私共はどうせ、利益の交換で生きて居るのだと云う婦人。
此等三つの群のほかに、勿論、或一点を堂々廻りして只平安に生きて死んで行く多くの人々と、アメリカの婦人の一部として、殆ど何人の注意も引かれずに、明光のささない穴ぐらの中で一生を送るような、哀れむべき貧民階級の婦人のあることは事実でございます。
けれども、真の意味に於て、女性を成育させて行くのは、何と云っても第二の部類に属する人々だろうと存じます。
健全な体躯と、明快な理智と、馴練された感情は、光栄な何等かの理想を彼女の魂の裡に植えつけます。そして、緻密な理論的考察と、自由な心の持つ新鮮な覇気とは、アメリカを毒す、余りに群衆的な輿論から毅然として、彼女の道をよき改革へ進めますでしょう。
斯ういう婦人の裡には、真個に跪拝すべきよき力が漲って居ると思います。時には、うんざりさせてしまうような調子の高い陽気さも彼女の裡にはしっくりと融和されて、女性の強靭な弾力を輝やかせる一色彩となりますでしょう。
彼女こそは愛すべき永遠の女性として、地上の歓びを生むべきなのでございます。
けれども、C先生、勿論此は、現存して居る人の一つの型をより強調し、より理想化した私の偶像にすぎないのでございます。
こういう方向に向って行って居る人は居ります、勿論。けれども、彼女等の周囲を囲繞して居る種々な条件はなかなか、人類の希望する「そのところ」へは行かせません。
私共の前進に大きな困難があると同様に彼女等も又、多大な努力を要すべき種々な障害を控えて居ります。保守的な彼女等の先輩は、只管に聖句を愛用して、誤解した神聖さで、人間を殺そうと致します。
薔薇液を身に浴び、華奢な寛衣《ネグリジェー》をまとい、寝起きの珈琲を啜りながら、跪拝するバガボンドに流眄をする女は、決して、その情調を一個の芸術家として味って居るのではございません。
こちらの婦人の華美と、果を知らぬ奢沢は、美そのものに憧れるのではなくて、一顆の尊い宝石に代る金を暗示するから厭でございます。
けれども、斯様に、種々の差別を以て生活して居る幾千万かの婦人を透して、持って居る何物かもございます。
其をあげて見るならば、第一は、積極的な事でございましょう。こちらの婦人と、我が故国の婦人との差は、恐らく、只此の積極と云う一字の差であるのではございますまいか。
私共の親達は、彼女の少女時代をどうして育ったでございましょう。その処女時代を、その新妻として記憶すべき時代は、彼女の脳裡にどんな美くしく喜ぶべき思い出となって居りますでしょうか。
私は、自分の母のために、総ての左様である女性の為に、真個に彼女等の受けて来た待遇をお気の毒に思わずには居られません。
笑いたい丈笑わせられる若い娘が幾人ございましょう。勉強したい丈させられる人、愛したい丈真に愛せる人。其等の人は、我国の女性のうちに幾人あるでございましょう。従来の形式的教育は、総ての外囲だけを強制的に調わせようと致しました。
そして、その整ったと云う理想の形は、只無暗に人の心の裏を悟るに早く、自己をフランクに表わす事なく、凝と総てを両歯の間にかみしめて、眉を上げたような女でございます。
女性の持つべき総ての特性を完全に育てられては居りません。従って、彼女等は、尊敬すべき良人を守って、超然と立つ勇気も無ければ、放蕩無頼な良人をして涙を垂れさせる、尊き憤りもございません。従順と、屈従との差を跨き違える人間は、自分の何事を主張する権威も持たない薄弱さを、「私は女だから」と云う厭うべき遁辞の裡に美化しようとするのみならず、小溝も飛べない弱さを、優美とし「珍重」する(特に珍重という言葉をつかいます、何故なら、人間は、畸形な小猫をも、その畸形なるがために珍重致しますから)男性は、その遁辞を我からあおって、自分等の優越を誇って居ります。
此等に気焔を上げてしまいましたが、とにかく、此の積極的という事は、万事に就て、こちらの婦人の強みになって居ると思います。良人の僅かな月給を、どうしたら一銭少く使おうかと心配するより、先ず、自分が幾何補助する事が出来るかを考えます。
どうしたら怒らせまいかと思い患う前に先ずその一つ先の笑わせる事を考えます。
彼等が生活というものを真剣に考える事は、我国の婦人の及ばないところだろうと思います。
生活は彼女等にとって遊戯ではございません。生きなければならないと云う事は、片時も脳裡を去らない緊張を与えて居ります。
其故、よく日本の人々の間に云われる、自動車を持って居ても下女は使わないという現象になるのでございます。元より自動車と云っても、日本のように単に贅沢者の玩具か、人敷道具として行われて居るのは外の国には類のない事でございましょう。こちらでは時間を倹約する唯一の道具として、極端に近く実際的に行われて居ります。
斯うして並べて来ると、アメリカの婦人は、只良い点ほかないように見えるでございましょう。けれども、私は決してそうではないと思います。彼等にも欠点はございます。けれどもその欠点は多くの場合、彼等の長所を裏から見た場合でございます、私が今までに感じた事は、直覚の鈍い事、自ら与えられた権利に捕われて居る事、余り物質的なことと、群集的なこととでございましょう。
彼女等の引緊った表情と、軽快な容姿と比較したとき、その直覚の鈍さは、時には滑稽の感を与えずには措きません。
年中緊張して、笑う間にさえ尚心にゆとりを与えない彼女等の生活は、東洋人に特恵である直覚と対立した時、思わずも微笑させる余裕を作ります。
社交的で、人をそらさない婦人も、発音が少しでも違うともうその言葉が分らない。思い上ったいい顔にも当惑の色を浮べて一寸躊躇する様子は可愛いうございます。
一体こちらの婦人は子供のうちから、尊敬される習慣を持って育って居ります。擲り合て喧嘩をする腕白小僧も、一人女の子が入って腕をつかむと、嘘のように音なしくなってしまいます。其故、年をとるに従って種々の条件から加って来る自尊心は、法律的権利を獲得することによって一層強められて居ります。日本の婦人には与えられて居ない法律的人格が、彼女等には強い後盾となって居ります。勿論女性も人類である以上、人類の発達の為に備えられた、人が人の為に作った法律はこの当然の権利を女性にも与えるべきであり、要求すべきでございましょう。
私は、自分の同胞が、余り惨めな法律的存在であるのを悲しく思うとともに又こちらの多くの女性が、自分等の善用すべき権利に却って駆使されるのをも見るに堪えない心持が致します。
日本にもやかましく云われる、法律的な離婚問題、離婚と云う事は、この事自身既に充分悲劇的でございます。が、其等の原因が、彼等二人の真の生活を破壊するものである時は、法律的離婚は已を得ない事でございましょう。より善き、より純一な相互の生活の為に已を得ない事でございましょう。決して、あるべき事ではない。そしてそう云う場合に用いられる法律的権利は、最も慎重な反省と、深い理知的批判を経た後にのみ決定されるべきもので、単純な反抗心や、浅薄な優越を得たい為であってはならないのは勿論の事でございます。
ところが、こちらでは、そう云う事件の場合、悲劇を一層悲劇的ならしめる結果が多いのは、どうしてでございましょう。
一人の人間が死ぬことは、大きな悲しみでございます。
その死ぬ一人が、又他に一人を殺すのは、恐るべき事ではございませんか?
もっと具体的な例をとって申せば、一人の人が対手に愛を失ったのは、もう其で充分な涙であるべきでございます。其が、愛を失った上に、魂の尊重すべきをさえ忘れるのは、更に悲劇ではあるまいかと云う事でございます。
離婚訴訟には、婦人の弁護士がつきます。そして、大抵の場合に婦人が勝訴になります。時には、良人が何等の悪意も蛮行もない場合に於てさえ婦人は訴訟して、勝つ事がございます。
其は何故でございましょう。何故そう云う恐るべき冒涜が人間の魂に向ってされるのか? 此は、私が真個に心から
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