私は、総ての魂の上に、よき沈思と、燃焼と而して飛躍とを祈って筆を擱きます。
[#地から4字上げ]一九一九年八月二十六日
[#地から2字上げ]レークジョージにて。

       雑信(第三)

        (其一)

 C先生。
 其方《そちら》は如何でございますか、此の紐育《ニューヨーク》から二百|哩《マイル》程隔った湖畔は、近頃殆ど毎日の雨に降り籠められて居ります。或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱な細雨に濡れて、夏の光輝は何時となく自然の情景の裡から消去ったようにさえ見えます。瑞々しい森林は緑に鈍い茶褐色を加え、雲の金色の輪廓は、冷たい灰色に換ります。そして朝から晩まで、一重に物懶く引延ばした雲の彼方から僅かに余光を洩す太陽の下に、まるで陰翳と云うものの無い万物を見るのは淋しゅうございます。五月の末に此方に来た時は、紫紅色の房々としたライラックがまだ蕾勝ちで、素朴な林檎の花盛りでございました。其からぐんぐんと延び育った熾な夏は僅か二箇月でもう褪せようと仕て居ります。私が大きな楡の樹蔭の三階で、段々|近眼《ちかめ》に成りながら、緩々と物を書き溜
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