い、アメリカの女位知的で、活動的で、芸術的で、総ての点に完全な婦人はないと讚美する人もございます。
どっちが正しいのでございましょう、又何故、同じ、アメリカの婦人と云う対象に向って、両極端の批判がなされるかと云うと、第一の原因は、その観察者が多くの場合に、総て男性だからと云う事に大きな理由を持って居ると思います。
女子教育の視察に行く人は多く男性ではありませんでしょうか。
美術や文学の美くしさを探ろうとして来る人々の裡に、幾人の女性が居りますでしょう。
異性が異性を見る場合に、兎角起り勝ちな、又、殆ど総ての場合に附帯して来る、多大の寛容と、多大の苛酷さが、アメリカの婦人に対しても両方の解決を与えるのだと思います。
まして、現代の日本の男性に表われて居る二つの型――勿論其は至極粗雑な大別ではあっても――は、保守的婦人観と、進歩的婦人観とに分ち得ると思います。
女性の感情の至純さと、素質の平等、一言に云えば夫人の良人に対する知と云うものに尊敬の払えないような、所謂男らしい欠点を多大に持った人は、こちらの女性に対して、彼の持つ、哀れむべき尊厳を犯される不安から、虚勢を張ってけなしてしまいます。
又もう一方の場合では、只さえ、今の煮え切らない箇性の乏しい、我国の女性に同情はしながらも、その解放の為に叫びながらも、衷心の不満を押えられないで居る男子が、兎に角、自分というものを持って、ピチピチとはねる小魚のように生きて居るこちらの婦人は、満たされない或物を同様に満たす或物を持って居るのは争えない事実でございましょう。
自分の夫人でありながら、自分の仕事には一向共鳴を感じてくれない自分の人。魂を激しい愛――愛と云うものを理解した愛――でインスパイアしてくれるどころか、只怠いくつな寄生虫となって、無表情の顔を永遠の墓場まで並べて行かなければならない――。
其は、女性である私が考えてもぞっとする事でございます。人間として、悲しむべき生活ではありませんか。従って、自分の生活はそうでないにしても、周囲の多くの事件に、其う云う歯がゆさを感じて居る人が、驚くべき力を以て、こちらの婦人の讚美者となり、憧憬者となるのは無理もない事でございます。
そう云う、各自の意見が異るところへ、こちらへ来た人々の生活は、一面から云って殆ど悲劇的な状態にあるとも申せましょう。
家庭からは引
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