私は、総ての魂の上に、よき沈思と、燃焼と而して飛躍とを祈って筆を擱きます。
[#地から4字上げ]一九一九年八月二十六日
[#地から2字上げ]レークジョージにて。

       雑信(第三)

        (其一)

 C先生。
 其方《そちら》は如何でございますか、此の紐育《ニューヨーク》から二百|哩《マイル》程隔った湖畔は、近頃殆ど毎日の雨に降り籠められて居ります。或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱な細雨に濡れて、夏の光輝は何時となく自然の情景の裡から消去ったようにさえ見えます。瑞々しい森林は緑に鈍い茶褐色を加え、雲の金色の輪廓は、冷たい灰色に換ります。そして朝から晩まで、一重に物懶く引延ばした雲の彼方から僅かに余光を洩す太陽の下に、まるで陰翳と云うものの無い万物を見るのは淋しゅうございます。五月の末に此方に来た時は、紫紅色の房々としたライラックがまだ蕾勝ちで、素朴な林檎の花盛りでございました。其からぐんぐんと延び育った熾な夏は僅か二箇月でもう褪せようと仕て居ります。私が大きな楡の樹蔭の三階で、段々|近眼《ちかめ》に成りながら、緩々と物を書き溜めて居るうちに、自然は確実な流転を続けて居ります。今も恐るべき単調さで降りしきって居る雨が晴れたら、地上はきっともう秋に成って居りますでしょう、雨が好きな私も、毎日毎日同じ水気と灰色とで溺れたような景物を眺め暮すのは、少し飽き飽きした心持が致します。――
 C先生。
 もう三時間許り前、私は此処まで陰気な机に向って書き進めました。けれども、余り気分が冴えないで若し其儘進んだら如何那に物懶いものが出来上るか分らないと思ったので、其処まで書いてペンを擱いて仕舞いました。そして暫くの間或雑誌に出て居る、日露戦争当時 Peace Maker として働いたルーズベルトを中心として各国が往復した手紙を読みました。(此は余談ではございますが、当時大統領だったルーズベルトを中心にして、動いた各国王、特に露、独の心持は人間の生活の一断面として面白うございます。非常に面白うございます。不幸な露国皇帝が彼の死を死んだ運命の尖端《きっさき》は、非常に微細な片言の裡に変形して現われて居ります。)
 其から御飯を食べ、又少し本を見て、今改めて机に向った私は、もうすっかり先刻の重圧からは脱して、活気に満ちた心と、頭
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