ない年代に一人の一生にとっては見逸すべからざる動揺の生じることがある。桜は春咲く花と云っても、確定した日までは予言出来ないように、深甚な運命の戸口は、箇性の置かれた繞境、発育の程度によって、皆異なった瞬間に開かれます。教育者などが或る時陥りがちな、概念的類推にのみよらず、自己の道程を、全く自己に即して内観することの必要は、この点でも明かにされるのです。
 私は、今丁度、研究者の使う用語を以てすれば、青年期の末端、成年期に入ろうとするところにあります。文字の上では、いささかの華やかさもない時です。それにも拘らず、私一人としては慎重に思いあらためて見ずにおけない、内的転回が極最近に行われました。数年間持続した渾沌が或る程度まで整理され、兎に角落付ける光がさして来たのです。
 一体、私は、幼女の時代から、概して幸福といわれる境遇のうちに育ちました。子供にとって幸福というのは、充分な父母の愛と、相当な物資の余裕、健康、稍《やや》長じては各自の個性を認めようとする常識を両親が持っていてくれるということです。私は、幸い丈夫で、可愛がられ、今から十年前の一般から見れば自由に育って来ました。従って性格
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