わが母をおもう
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はしゃい[#「はしゃい」に傍点]で座敷を覗いたり
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母中條葭江は、明治八年頃東京築地で生れ、五十九歳で没しました。母の実家というのは西村と申し、千葉の佐倉宗五郎の伝説で知られている堀田藩の士で、祖父の代は次男だったので、武術の代りに好きな学問でもやれと言って国学、漢学、蘭学などを専門にやっていたらしい様子です。
経済的には貧乏であったらしい話で、明治政府に勤めるようになってから、祖父は金モール服で宮中へ参内し、娘である若い母は人力車で華族女学校へ通っていながら、体格検査の時栄養不良という評をもらった程であったと、よく私に話した事がありました。
祖父はよく言えば潔白な性格であり、他の方面からいえば小心な人で、政治的手腕というものは欠けていたように思います。ですから伊藤内閣の時代には所謂正義派で、その生涯では大した金も残さず、しかもその僅かの財産も、没後は後継の人の非生産的な生活や、いろいろな家族内の紛糾のために何も無くなって、母は晩年、自分の少女時代の思い出のある土地の上に、雑草の生えるのを見て亡くなりました。
結婚等の問題についても、母は当時の若い娘としていろいろの苦労や闘争をして来たらしい。何しろ明治二十九年三十年代は日清戦争で、日本の経済事情が大きな変化をうけた時であり、一時いわゆる官員様といわれて、官僚全盛時代であったものが、新しく擡頭した金持、実業家がだんだん世間の注目の的となり、小説でも「金色夜叉」などがひろく読まれた時代でしたから、母の縁談というものも、やはり当時の社会相を反映していたらしい。伯父に当る人がある日母の部屋へ来て「よっちゃん! この伯父さんが一生恩にきるから某大将のところへお嫁に行っておくれでないか、そうすれば伯父さんは年に何万と利益があるし、お父さまは大臣になれる……」と言ったことがあったそうです。
そういう周囲と戦って、母は貧乏な工学士である父中條精一郎のところへかたづいて来たわけでした。父との結婚も母としては、若い娘らしいさまざまの空想に動かされたと言うより、極めて現実的な観察から承知したらしいのです。母は二人娘のあった長女で、父親っ子でしたが次女は母親っ子で、昔の家庭ですからお姑も居り、その人も「よっちゃん、よっちゃん」と可愛がるというありさまで、母は母親からは愛されていなかった。従って母に与えられる縁談は、先ほどのいかがわしい取引めいたものか、さもなければ父との縁談のような、一向ぱっとしないものであるか、どちらかであったらしい。
母は役人生活の内情や、実業家と言われる人の家庭生活を――派手に暮した伯父の生活の観察からいろいろ批判していたらしく、結局技術だけで食うには困らずにやってゆけるという程度の父のところへ来ることに決めたらしい様子です。このことは私が十五、六の頃から母が自分でよく話したことでした。
さて中條の家へ来てみたところが、そこには大姑、舅姑、小姑が四人、それにかかり人が二人いるという一家のありさまでした。それらの人々は、式の前にとりかわされる親類書というもので、母にも解っていたそうです。ところが愈々当時小石川原町の家へ来てみると、三つばかりの男の子がいる、誰の子だともわからず、然したしかに家の子供で、それがはしゃい[#「はしゃい」に傍点]で座敷を覗いたりなんかしている。大姑は「俊一、俊一」と呼んで寵愛している様子です。母はその子を見た時、顔から血の色がひくのがわかるような気持がしたそうです。母はとっさにその子は父の隠した子であって、双方の親たちは諒解した上のことで、自分だけにかくされていたことだと思ったそうです。この話は私の心に刻みつけられて、限りない同情を呼び起します。その時代の娘の立場、まして母が自分を愛されていない娘として感じていた気持の深さが、実にむごく反映している一插話です。幸いその子は舅の末弟の息子であり、その妻君が離別された後ひきとられて育てられていたのだということが判明しました。
父は純真な性格の人で、三十歳ではあったがそれ迄道楽もせずにいました。互に諒解が行ったらしいが、明治三十二年の末頃生れて百日目であった私を連れて、北海道の札幌へ赴任する迄の夫婦の生活は、いつもまわりで嵐が吼え猛っているような有様でした。結婚第一日目から父は祖父と客間で食事をし、母は姑その他と茶の間で食事をし、時にはあんまり二人で話が出来ない日が続くので、手紙を書いて紙つぶて[#「つぶて」に傍点]にして話し合ったという思い出話さえ聞いています。
元来母は感情も強く意志も強い、情熱的なタイプの婦人でありました。そのたっぷりした情熱が少女時
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