代の境遇や、まして結婚してからの環境の関係で、すなおに晴々と伸びることが出来ず、いつも不平や憤り、――女であるということの社会的憤懣などの形をとってあらわれた。しかも明治二十七八年、三十七、八年戦役という歴史的な時期を、若い女性の発展期に経験しているので、いわば明治から大正、昭和にかけての日本の文化の進歩的な面とそれと矛盾する古い反動的な面とを一身にそなえていたのでした。生活力が盛んでいわゆる日本婦人的慎しみというものは、一旦こうと思うと平気でかなぐり捨てることの出来る人でした。それ故、娘である私とのいきさつに於ても、婦人雑誌で典型づけている母性というものとは、較べものにならない烈しさ、相剋、苦しい愛情の身悶えのようなものがありました。
 強い人間にとっては重荷であるが面白い、弱い人間にとっては益々その人を弱くし卑屈にし、依存的にさせる、母はそんな風な猛烈な性格者であった。ですからまことに、歴史的に見て興味があり、子供との関係でも、母から溺愛的に愛された子は、何かしら母が無条件に愛せる弱いところをもっていて、私のように母と互に愛しあいながらも、この人生についての考え方、生き方で、対立したものは蹴落された虎の子のようで、却って計らざる幸運を生涯の上にもつ結果を来しています。
 こういう簡単な話の中に語りつくせない複雑な面白い無数の思い出が、母と父との、また母と私達子供らとの生活の中にあります。よかれ悪しかれ大へん手ごたえのある女であった。恐しいところのある女でした。若し時代と境遇とがもう少し新しかったら、母は自分の文学的な才能や女としての烈しい情熱を、きっとまともなものとして生かすことが出来たであったろうと思います。しかも私が深く感慨に打たれる事は、母が自身の矛盾によって、娘の生き方の中に表れている歴史の進歩的な面というものを、理解出来なかったことです。
 若い頃の母は小さい子供らを腰のまわりにつけて沢山の洗濯物もしたし、台所でも働いたし、庭掃除もしたし、私の小さい頃の日々の思い出の中には、いつも総領娘である五ツ六ツの私をおだてては、自分の助手にして働いていた生々とした美しい母の面影があります。
 母は美人でした。その頃は髪にバラの簪をさしたりして、可愛い写真が沢山ある。ところが欧州戦争後、母も年をとり、経済的な事情もいく分日増しによくなって来ると、母も健康を失いました。同時にだんだん自分達の貧乏世帯のやり繰時代を忘れて、何時とはなく実は沢庵を食べていたという一面は忘れて、祖父の金モール服や二頭立の馬車だの、宮中だのという面だけを記憶の中に蘇らしてくるようになりました。これは日本の一般的な空気が反動的になってくるにつれて、烈しくなった。この点は実に意味深いところであると思います。
 祖父という人は、当時の日本文化に対しては勿論、明治という時代そのものがもっていた古いものの重しを受けてはいたが、どちらかといえば進歩的な人でした。母は自分の父を追懐することの多くなった晩年に於て、祖父が果した文化的な役割の、そういう新しかった面の高い価値を評価することを知らず、ただ祖父の位階勲等や、祖父の発意でたてられたある修養団体で読み上げられる「創祖西村茂樹先生」の面でだけ評価をしたために、母と祖父との関係は今日の歴史にとって見ると、後へひきもどすための力としてだけに作用した形です。
 私は母に対する愛情、つまり最も愛する一人の婦人の生涯の道行きを眺める者として、こういう点にも母に対する深い気の毒さと残念とを感じます。母はそういう逆もどりをする他の面に、実に高く値打ちづけらるべき根気よさや、努力性や聰明をもっていたのですから。



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「家庭新聞」
   掲載月日不詳
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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